やさしいHAWAI’ I

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第8回: 『写真花嫁』
2010年10月26日

日系人が多いとは言っても、やはりハワイはアメリカ。ヨコヤマさん宅の生活の様子はアメリカそのものだった。外から見えた明かりの灯った広い部屋には、フカフカの絨毯が敷き詰められ、大きなソファとアームチェアが置かれていた。コーナーのテーブルには家族の写真が何枚も飾られている。今では日本でも当たり前のこんな部屋の様子も、当時の私にはアメリカのホームドラマの光景だった。
hawaii8-1.JPG



〔ヨコヤマさんご夫妻と私の長男。ヨコヤマさんの生まれ故郷であるコハラへドライブに行ったときの写真。背景はコハラから更に奥へ入ったウポル岬。〕






そんな中、意外なものが私の目を引いた。それは部屋のほぼ中央にある大きな棚の上に置かれていた立派な仏壇だった。ハワイで仏壇を目にするとは予想していなかった私は、驚きと同時にアメリカの中に日本を見つけたようなホッとした気持ちになった。ただ、左右に供えてある花が菊ではなく、赤いハワイの花アンセリウムだったことには、多少の違和感を覚えた。

仏壇の脇には、年のころは60代前後だろうか、年配の男女の古い白黒の写真が飾ってある。女性はリチャードさんにそっくり。明らかにご両親の写真だ。その陽に焼けた顔には、当時の生活を偲ばせる深いしわが見え、がっちりした体格に黒の紋付の着物を着ている。黒の紋付と言えば、昔は結婚式で新郎新婦が着た衣装。しかし2人の結婚式にしては年を取りすぎている。もしかすると、息子のリチャードさんとツルさんの結婚式の時に、ご両親が記念にと、自分たちを撮った写真なのかもしれない。

日本人のハワイへの移民は、明治元年に始まる。明治維新を経験した日本は大きな変革の時期を迎えており、それに加え各地で凶作が続いていた。ちょうどその頃、ハワイから移民募集があり、国内での厳しい生活に見切りをつけた日本人が、ハワイへ移住したのだ。

その大半は男性で、当初は出稼ぎ目的だったが、徐々に家族を持ってハワイに落ち着きたいと思う人も現れる。そうした独身男性は結婚相手を探すために、自分の写真を日本の親戚や知り合いに送り、適当な人が見つかるとハワイへ呼び寄せるようになった。つまり、写真1枚で話がまとまれば日本で入籍し、3ヵ月後にハワイへ呼び寄せる「呼び寄せ移民」の時代が始まったのだ。


hawaii8-2.jpg1996年に日本で公開されたアメリカ映画『ピクチャーブライド』をご存じだろうか? これはまさに、この時期のことをテーマにした映画。写真1枚を頼りに嫁つぐ決心をし、ハワイへやって来た日本人の女性を、「写真花嫁」、すなわち「ピクチャーブライド」と呼んだ。映画の中で工藤夕貴扮するリヨは写真花嫁としてハワイへやって来る。だが、ホノルルで彼女を待っていたのは写真より25歳も年をとった中年男だったのだ......。

このように、当時は"何としても日本人の嫁さんを見つけたい"という一念で、何十年も昔の若い頃の写真や、時には知り合いのハンサムな若い男性の写真を自分と偽って、日本に送った人もいたようだ。たった1枚の写真を頼りに、花嫁がようやくホノルルに着いた時、そこで待っていたのは見たことも無い年配の男性だった、という
映画で描かれた状況は、現実にもある話だったのだ。


                 右上の写真は「写真花嫁」を題材にした書籍の1つ。
                 日系二世のヨシコ・ウチダ著の『PICTURE BRIDE』



『ハワイ日系人史』によると、明治41年から大正13年までの間で、ハワイへの日本人移民の総数はおよそ62,000人。そのうち半数のおよそ32,000人が女性で、その多くが写真花嫁だったという。彼女たちはハワイで夫と共に新しい生活を始め、多くの子供を産み、子供たちに教育を与えるために身を粉にしてたくましく働いた。

聞くと、リチャードさんの母親も「写真花嫁」だったそうだ。彼女もまた、夫となる人の写真を手に広島からまず神戸の港へ、そこから太平洋を船に揺られ1ヵ月以上かけてハワイへやって来た。もちろん嫁入り道具などは持たず、ほぼ着の身着のまま、あの写真に写っていた黒の紋付だけは大事に抱えてきたに違いない。

リチャードさんの年齢から推測すると、彼女がハワイへ移住したのはおそらく大正の初め頃だろう。ハワイに関する知識もほとんどなく、写真に写っている結婚相手の男性がどんな人物かも分からない。どんな生活が待っているのかも想像できないまま未知の世界へ飛び込むには、どれほどの勇気と決断が必要だっただろうか。今では飛行機でわずか8時間弱の距離だが、当時 船でハワイへ渡るなど、まるで宇宙ロケットで月世界へ行くような覚悟だったに違いない。


セピア色に変色した
仏壇の上の1枚の写真は「写真花嫁」をどこか遠い国の物語としてではなく、身近な現実のこととして私の心を強く引き付けた。


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【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近のわたし】先日、有明コロシアムで、楽天・ジャパン・オープンに出場した「生ナダル」を見てきました。テレビ画面のようなアップ映像は見られないですが、戦うナダルと同じ空間に身を置いただけで、大ファンの私は大満足です。