やさしいHAWAI’ I

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第9回: 1匹50セントのヘビ 
2010年11月10日


―― ハワイにはたくさんヘビがいます。1匹獲ると50セントで売れます。――


日本が明治維新という大きな波に揺られていた頃、ハワイへの移民募集にはこんな内容の宣伝文句が織り込まれていた。しかし、ご存じの人も多いだろう。実はハワイには、ヘビがいない。海中火山の噴火でできたハワイ諸島には、もともと爬虫類は生息せず、その後もヘビは入ってこなかった。ハワイにヘビがいないことは、今では良く知られたことだが、なぜこのような話が出てきたのだろうか。

当時ハワイでは、白人が持ち込んだ種々の疫病のため、先住民の人口が激減していた。1835年カウアイ島に初の製糖会社が設立されたが、労働力の不足に悩んでいたハワイは、なんとしても日本からの移民をその労働力にあてる必要があった。そこで出てきたのが、このうさん臭い募集の宣伝文句だったというわけだ。

ところでヘビ1匹の値段、「50セント」というのは、一体どのくらいの価値だったのだろう。

明治元年の移民募集の条件は、「1ヵ月4ドルの賃金で3年契約」だった。これは当時の日本では、破格の賃金だったらしい。調べてみると、明治初頭の為替レートは1ドルが1円。月収4ドルだと年収が48円になる。その頃、国内で仕事を持っている人々の平均年収が21円ほどだったというから、庶民の平均年収の2倍以上というわけだ。

hawaii9-1.JPG日本では維新後の土地制度の変革、失業、飢饉など、庶民の生活は大変厳しい状態だった。そのため、わずかな田畑を売り払い、海外で一旗上げようとする者や、口減らしのために次男、三男などがこの移民募集に応募した。国内で仕事に就いていなかった者にとっては、「1ヵ月4ドル」はありがたい話だったに違いない。ヘビに換算すれば、8匹捕まえれば1ヵ月分の賃金となったわけだ。「ヘビがいたら」の話だが、この濡れ手に粟のような話に釣られて、ハワイへの移住を決断した人もいたのだろう。

             〔ハワイへやって来た日本人移民には、番号が付けられた。
                               ビショップ博物館所蔵の写真〕


ところがハワイでの移民生活の現状は、予想をはるかに超えた厳しいものだった。中には過酷な重労働や将来の生活への失望のために、自殺する者もいた。当時移民の苦労を歌った「ホレホレ節」という歌がある。


 ハワイ、ハワイと夢見てきたが 流す涙は甘蔗(キビ)の中
 行こかメリケン 帰ろか日本 ここが思案の ハワイ国
 

            (※メリケン: アメリカンが訛ったもの。ここではアメリカ本土のこと)

 今日のホレホレ 辛くはないよ 昨日届いた 里便り 
            (※ホレホレ: サトウキビの枯れ葉を手作業で取り除くこと)

 横浜出るときゃ 涙が出たが 今は子もある 孫もある
 ハワイ ハワイと 来てみりゃ地獄 ボースは悪魔で ルナは鬼
 

             (※ボースはboss、ルナはハワイ語で現場監督のこと)

 カネはカチケン ワヒネはハッパイコウ 夫婦仲良く共稼ぎ 
             (※カネはハワイ語で男性 カチケンはcut cane つまり
                               サトウキビを切って収穫すること。)
             (※ワヒネはハワイ語で女性 ハッパイコウはハワイ語からの
              派生語で、切って収穫されたサトウキビを車に積み込むこと)


この歌の歌詞を見ただけで、当時のハワイでの日本人移民の過酷な労働条件が目に浮かぶようだ。

hawaii9-2.JPG  
                                                                 
  
                 〔ホレホレ節と、写真:砂糖耕地で働く女性労働者の
                            風俗は『ハワイ日本人移民史』より〕 


リチャードさんは、あまり両親のことを多くは語らなかったが、サトウキビ畑で働いていたことは聞いたことがある。生まれ育った故郷を出て、見知らぬ土地で必死に働き、成功して再び故郷へ戻ってくる。リチャードさんの父親も、そんな「故郷に錦を飾る」ことを夢見ながらハワイへ移民した、およそ20万人の日本人の中の一人だった。その実、待ち受けていたのは毎日サトウキビを切っては車に積む、厳しく苦しい生活。その中で、ご両親は8人の子供を授かった。長男で唯一の息子であるリチャードさんと、その下に7人の娘だ。

後年、リチャードさんから『移民百年記念ハワイ島日本人移民史』という貴重な資料をいただいた。1971年ヒロタイムス社発行の分厚い本だ。名簿はハワイ島の各地域別にアルファベット順に並んでいる。荒木から始まり、藤井、藤本・・・渡辺、山川、山内、そして・・・


横山亀吉 広島 労働
横山龍一 同
 
  


私はその名簿の中に、リチャード・ヨコヤマ(日本名:横山龍一)の名前を見つけた。

仏壇に飾ってあった白黒の写真に写っていたお父さんは、亀吉さんといったのだ。出身地は広島、携わっていた仕事は「労働」。この「労働」という二文字を見た瞬間、私の目の前にはハワイ島のサトウキビ畑のイメージが広がってきた。青々と風になびくサトウキビ畑は、私にとっては本当に懐かしい風景だけれど、かつてはハワイで命を削るような日々を送った日本人移民の、生活の糧になっていた場所だったのだ。

サトウキビ畑の間から、ホレホレ節の歌声が聞こえてくるような気がした――。



<参考文献/サイト>

『ブラジル 日本移民80年史』
『ハワイ日本人移民史』
野村ホールディングス/日本経済新聞社運営サイトman@bow

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【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近のわたし】今年は夏の猛暑のあとに適度のお湿りがあったので、マツタケが大豊作だとか。かつてシアトルで、現地の木材会社に働いている方からバスケットに山盛りのマツタケをいただき、すき焼きにして食べたことを思い出す。今思えば、夢のような話だ。