やさしいHAWAI’ I

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第24回:「ペレの警告」
2012年02月10日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】アイルトン・セナが生前こう言ったそうだ。
『限界までは誰でも行ける。それを超えたところから、本当の勝負は始まるのだ』
テニス全豪オープン決勝戦はジョコビッチ対ナダルの6時間にわたる死闘。
まさに限界を超えた戦いを制したのはジョコビッチ。ナダルに勝たせたかった・・・。
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「ああ、またペレが怒っている」
キラウエア火山が噴火するたびに、ハワイの人々は必ずペレの名を口にする。嫉妬心が強く、激しい気性のペレは、自分の意にそぐわないことが起きると激怒し、火山を噴火させ溶岩を流す。人はそれに何の抵抗もできず、ただ呆然と眺めているだけだ。だが、そんな大自然の力に対し無力だと思われている人間も、時に信じられないようなドラマを作り出すことがある。

ハワイ島南東部に、カラパナという静かな村があった。1990年の噴火の際、ペレの怒りはこの村に向かった。溶岩はヤシの木であろうと人家であろうと、周囲にあるものすべてを炎の中に包み込む。村の人々は自分達の家が目の前で燃え上がるのを、ただ泣きながら見つめるしかなかった。

迫り来る溶岩と2つの教会_edited.jpg〔左上方から溶岩が近づいている。右のページの右下にある白い教会が移動したペインテッドチャーチ。もう1つの教会(右のページの中ほどにある)は溶岩にのまれた。 『Aloha Okalapana』より〕

溶岩の流れの先には村の2つの教会があった。そのうち1つの教会の信者達は、これは神から与えられた運命として、溶岩にのまれるという現実をやむなく受け入れることにした。しかし、「ペインテッドチャーチ」として知られるもう1つの教会だけは、何とか救いたいという声が上がった。そこで村人達は、溶岩の流域から外れた場所に教会を移動することを決めるが、溶岩は目前に迫っている。もし道路に流れ込んでしまえば、道は塞がれ万事休すだ。徹夜の作業で教会を部分的に解体し、建物本体を大きな台車に乗せて安全な場所へと引いていく。こうして溶岩から逃れるようにして、教会は辛うじて救われたのだ。そして移動が終了した直後、道路は溶岩に覆われた。

教会の移動edited.jpg〔左:村人が協力して、ペインテッドチャーチを台車に乗せて移動しているところ。(Aloha OKalapanaより〕








ペインテッドチャーチ内部.JPG    ペインテッドチャーチ.JPG
〔現在のペインテッドチャーチ。私が訪れた時は、真っ青な空に白く浮かび上がり、本当に美しい教会だった。内部は名の通り、カラフルな絵に囲まれている。〕

これはペレの力に対し、何らかの抵抗をして成功を収めたごく稀なケースだが、通常はそう簡単に見逃してはくれない。

日本でもCSチャンネルで放送されているドラマ『Hawaii Five-O』。オリジナルは1968年から80年にかけて大ヒットした番組で、舞台がハワイだったこともあり、当時、私も楽しみに観ていた。しかし、エピソードの1つに出てきた、ある男が金を目当てにハワイ州知事を脅迫するセリフは、大いに物議をかもすものだった。
"ハワイ島の火山の火口に爆弾を仕掛けて溶岩の流れを変え、
ヒロの町を火の海にしてやる。それがイヤなら5億ドル用意しろ"
ペレの本当の怖さを忘れてしまったような内容に、撮影現場を目撃した地元の人たちは嫌な予感がした。案の定火口付近では、雨には慣れているはずの地元の人々が驚くほどの豪雨が続き、撮影予定が大幅に遅れた。きっとペレの怒りに触れたに違いない。

『ペレの棲家に爆弾を仕掛けるなんて、ペレが怒るのは当たり前だ。結局、撮影スタッフはみんな、火口でペレに祈って怒りを静めた。それで何とか無事に撮影は終わったらしいがね』。とヨコヤマさんが言っていたことが記憶に残る。

ペレは神話に登場する女神である。しかしハワイの人々にとっては涙や髪の毛とされる物まで実際に目にすることができる、とてもリアルな存在だ。そのためペレに関わる話の多くは、どれも事実とフィクションの境目がはっきりせず、そこがまた興味深い。ともあれ、私にはペレの話はどれも"自然に対する畏怖の念を忘れてはいけない、人は自然の中で生かされているのだ"ということを示唆しているように思える。科学の進歩に依存しすぎている私たち現代人に向けた、ペレの警告のような気がしてならないのだ。