明けの明星が輝く空に

Chewing over TOP » 明けの明星が輝く空に » 「2012年3月」一覧

第27回:『アニメ作品に見る神話学』①
2012年03月30日

【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】今回記事にしたセミナーは、予想以上に面白かった。講師のクリスピンさんと運営スタッフの皆さんには、この場でお礼を言わせていただきたいと思います。ありがとうございました。
-----------------------------------------------------------------------------------------
使うIMGP5848.JPG

白雪姫やシンデレラは、なんともうまくやったものである。リスや小鳥を相手にステキな男性が現れてくれないかしらと唄っているだけで、そのうち王子様と結ばれお城での生活を手に入れてしまう。玉の輿もここに極まれり、といった感があるディズニーの姫様たちだが、どうやらそこには "アブラハムの宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)"の考え方が反映されているらしい。

これまでと全く違ったアニメの見方を教えてくれたのは、先日、日本映像翻訳アカデミーで開かれた特別セミナー『アニメ作品に見る神話学』だ。講師は日本アニメへの造詣が深い声優、クリスピン・フリーマン氏。日本の作品の英語吹き替えを担当し、日本映像翻訳アカデミーLA校の講師も務める。『アニメ作品に見る神話学』は『魔法使い、巫女、戦う少女編』『巨大ロボットと超人編』に分かれていたが、どちらも日米における宗教的背景の違いが、アニメ作品に及ぼす影響を分析したものだ。


使うIMGP5927.JPG『魔法使い~』では、日本の『セーラームーン』が具体的な例として取り上げられていた。自分が月の女神の娘だということを知った主人公の月野うさぎは、最終的には自分自身が女神になる。クリスピンさんはここに、神道における神と人の合一が見てとれると論じている。これは、一神教であるキリスト教などではあり得ないことらしい。神は唯一無二の絶対的存在であるがゆえ、人は神になることはできない。死んだ人が神社に祀られることもある日本とは、根本的に違うわけだ。

ディズニーアニメのお姫様たちは、目標実現のために自ら行動を起こすことはない。なおかつ非常に従順だ。アブラハムの宗教においては神に「計画」があり、人はそれに従うだけといった考え方があるそうだが、まさにその教えを守る象徴的存在ということなのだろう。全く対照的な存在として思い出されるのが、宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』だ。主人公のナウシカは、"墓所の主(作品世界における神とも言える存在)"の人類再生計画に背き、自分達の意思に従って生きていくことを決断。その姿はなんとも凛々しく、感動的だった。

使うIMGP5946.JPG宗教とは関係ないが、僕はふと、白雪姫たちは"お手本"なのではないかと考え、こう仮説を立てた。

「米国アニメで従順なお姫様が描かれるのは、現実世界におけるアメリカに強い女性が多いからである。アニメクリエーター達(おそらくほとんどが男性)は彼女らを持て余し辟易している。そこで、もっと大人しい女性が増えて欲しいという願いを込め、従順なお姫様をスクリーンに登場させた」

これは"アニメクリエーター達の陰謀説"とでも呼べるだろうか。今回、クリスピンさんの奥さんと話をする機会があったので、この説を彼女にぶつけてみた。アメリカ人女性の意見をぜひ聞いてみたかったのだ。すると彼女いわく、「それは陰謀と言うよりファンタジーよ」。クリエーターたちは内向的で大人の女性を苦手とするタイプが多く、無意識のうちに自分たちが理想とする女性を作り上げてしまうのではないか、ということだった。そしてこれは初耳だったのだが、実はウォルト・ディズニーからして、そういったタイプの人だったらしい。

使うIMGP6062.JPGのサムネール画像
映像作品に登場する巫女としての女性キャラクターについては、僕も『アンヌへのラブレター』と題してこのブログで触れたことがある。その時は漠然と、巫女的な存在に対するイメージは万国共通だろうと思っていた。ところが、実はそうではないらしい。実写版『宇宙戦艦ヤマト』では、宇宙生命体に乗り移られたヒロインがまるで巫女のように、その生命体の言葉をしゃべりだす場面がある。欧米では、この世の全て(自然)は神が作ったものであるから、神の創造物以外のもの(超自然)は"悪"であり、巫女のように超自然とチャネリングできる人間も"悪"になるらしい。その結果、超自然的な力を持つ女性はみんな"魔女"とされるというのだ。でも待てよ、じゃあ『魔女の宅急便』のキキは、欧米でどう見られているんだろうか。僕は心配になってきた。「かわいい顔して、あの子、魔女よ」なんて言われ方をされていないといいのだが・・・。

第26回:哀しみのヒーロー
2012年03月02日

【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】小学館の豪華限定版『ジャングル大帝』を買った。A4版のハードカバーで上下2巻。あの百科事典のような豪華装丁版『風の谷のナウシカ』も、買っておくべきか悩んでいる。
-----------------------------------------------------------------------------------------
いつの間にか仮面ライダーシリーズから、「改造人間」という言葉が消えたそうだ。人工臓器の移植手術などが行われるようになり、患者さんや家族の心情を考慮した自主規制が行われるようになったそうだ。(平成のライダーたちからは、改造人間という設定自体がなくなっているらしい)

僕らが子どものころ、「改造人間」という言葉にマイナスイメージはなかった。それはもちろん、毎週ライダーが見せる活躍のおかげだ。主題歌の終わりに聞こえてくる"本郷猛は改造人間である"というナレーションは、特殊能力を持つ改造人間の誇りを高らかに謳い上げているようにさえ聞こえていた。

だけどよく考えてみると、昭和の特撮モノで本郷猛ほど悲劇の主人公はいないだろう。彼は自分から改造手術を希望したわけではなく、ショッカーという悪の組織に勝手に体を改造されたのだ。少し力を入れただけで水道の蛇口をねじ切ってしまうなど、もう普通の体ではなくなった。ショッカーに対する彼の怒りや悲しみは想像に難くない。例えば第2話のエンディングには、こんなナレーションが入る。"本郷猛は改造人間の悲しみに耐えて、ただ一人爆走していく。目的はただひとつ。ショッカーの陰謀を打ち砕くためである"。また第4話も、"人々は互いに支えあうものを持っている。兄弟、恋人、夫婦。さまざまな愛の絆に結ばれている。しかし今の本郷猛には、そのどの愛も許されてはいない"というナレーションで最後を結んでいる。そう、仮面ライダーは、マスクの下に哀しみを秘める孤独なヒーローだったのだ。

それなのに僕には、本郷猛が仲間に囲まれて楽しそうに笑っている印象が強い。と言うのも、理解者である立花藤兵衛の経営する喫茶店に行けば、彼を迎え入れてくれる仲間がいたからだ。楽しそうだといえば、ショッカーのことはそっちのけでオートバイレースの練習に励み、藤兵衛と笑い合うなんていう場面もあった。そうした日常の風景の中にショッカーの怪人が現れると、彼は仮面ライダーに変身して人々のピンチを救うのだ。"本郷猛は改造人間である"という一節がカッコよく聞こえたのも当然だろう。

大人ならともかく子どもは、番組エンディングのナレーションだけで主人公の心情など理解できないのだと思う。言葉での説明ではなく、もっと具体的な場面を見せるべきだった。例えば、平成ライダーシリーズの『仮面ライダーアギト』。ギルスというライダーに変身する葦原涼が、恋人や水泳のコーチに化け物扱いされ、1人で苦悩する姿が描かれている。本郷猛にも葦原涼のように、親しい人が自分のもとから去っていくといったエピソードがあれば、子どもだった僕にもわかりやすかったに違いない。

もし主人公の心情が描き込まれていたら、『仮面ライダー』は優れた人間ドラマとなっていたはずだ。ただ子ども番組だということを考えると、あまり暗い話にはしたくなかったのかもしれない。その点、2005年に公開された『仮面ライダー The First』は、大人向けに作られた『仮面ライダー』のリメイク作品で、そういった遠慮はいらないと思うのだが、これも主人公の苦悩に関する描き込みが弱かった。ライダーのリファインされたデザインとマスクの造形が見事なだけに、実に惜しいなあと僕は思ってしまうのだ。