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第26回:哀しみのヒーロー
2012年03月02日

【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】小学館の豪華限定版『ジャングル大帝』を買った。A4版のハードカバーで上下2巻。あの百科事典のような豪華装丁版『風の谷のナウシカ』も、買っておくべきか悩んでいる。
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いつの間にか仮面ライダーシリーズから、「改造人間」という言葉が消えたそうだ。人工臓器の移植手術などが行われるようになり、患者さんや家族の心情を考慮した自主規制が行われるようになったそうだ。(平成のライダーたちからは、改造人間という設定自体がなくなっているらしい)

僕らが子どものころ、「改造人間」という言葉にマイナスイメージはなかった。それはもちろん、毎週ライダーが見せる活躍のおかげだ。主題歌の終わりに聞こえてくる"本郷猛は改造人間である"というナレーションは、特殊能力を持つ改造人間の誇りを高らかに謳い上げているようにさえ聞こえていた。

だけどよく考えてみると、昭和の特撮モノで本郷猛ほど悲劇の主人公はいないだろう。彼は自分から改造手術を希望したわけではなく、ショッカーという悪の組織に勝手に体を改造されたのだ。少し力を入れただけで水道の蛇口をねじ切ってしまうなど、もう普通の体ではなくなった。ショッカーに対する彼の怒りや悲しみは想像に難くない。例えば第2話のエンディングには、こんなナレーションが入る。"本郷猛は改造人間の悲しみに耐えて、ただ一人爆走していく。目的はただひとつ。ショッカーの陰謀を打ち砕くためである"。また第4話も、"人々は互いに支えあうものを持っている。兄弟、恋人、夫婦。さまざまな愛の絆に結ばれている。しかし今の本郷猛には、そのどの愛も許されてはいない"というナレーションで最後を結んでいる。そう、仮面ライダーは、マスクの下に哀しみを秘める孤独なヒーローだったのだ。

それなのに僕には、本郷猛が仲間に囲まれて楽しそうに笑っている印象が強い。と言うのも、理解者である立花藤兵衛の経営する喫茶店に行けば、彼を迎え入れてくれる仲間がいたからだ。楽しそうだといえば、ショッカーのことはそっちのけでオートバイレースの練習に励み、藤兵衛と笑い合うなんていう場面もあった。そうした日常の風景の中にショッカーの怪人が現れると、彼は仮面ライダーに変身して人々のピンチを救うのだ。"本郷猛は改造人間である"という一節がカッコよく聞こえたのも当然だろう。

大人ならともかく子どもは、番組エンディングのナレーションだけで主人公の心情など理解できないのだと思う。言葉での説明ではなく、もっと具体的な場面を見せるべきだった。例えば、平成ライダーシリーズの『仮面ライダーアギト』。ギルスというライダーに変身する葦原涼が、恋人や水泳のコーチに化け物扱いされ、1人で苦悩する姿が描かれている。本郷猛にも葦原涼のように、親しい人が自分のもとから去っていくといったエピソードがあれば、子どもだった僕にもわかりやすかったに違いない。

もし主人公の心情が描き込まれていたら、『仮面ライダー』は優れた人間ドラマとなっていたはずだ。ただ子ども番組だということを考えると、あまり暗い話にはしたくなかったのかもしれない。その点、2005年に公開された『仮面ライダー The First』は、大人向けに作られた『仮面ライダー』のリメイク作品で、そういった遠慮はいらないと思うのだが、これも主人公の苦悩に関する描き込みが弱かった。ライダーのリファインされたデザインとマスクの造形が見事なだけに、実に惜しいなあと僕は思ってしまうのだ。