やさしいHAWAI’ I

Chewing over TOP » やさしいHAWAI’ I » 「2012年7月」一覧

第29回:真のカメハメハ大王の姿
2012年07月05日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】テニスは、全仏大会に続き、現在ウィンブルドンが開催されている。 トップ選手たちの、しのぎを削る日々の戦いを観ていると、世界を舞台にすることの困難さを痛感する。今年はオリンピックの年。スポーツの素晴らしい興奮に浸りたい。
-----------------------------------------------------------------------------------------
皆さんは、1976年4月にNHKの"みんなのうた"で登場した、『南の島のハメハメハ大王』をご存知だろうか。

南の島の大王(だいおう)は  その名も偉大(いだい)なハメハメハ
ロマンチックな王様で
風のすべてが彼の歌  星のすべてが彼の夢
ハメハメハ ハメハメハ ハメハメハメハメハ

29-image001.jpgのサムネール画像この歌の"ハメハメハ"という名が、ハワイ諸島を初めて統一したカメハメハ大王の名から導かれたかどうかは定かではない。しかし歌詞の内容は、一般的に良く知られたカメハメハのイメージとはかなりかけ離れている。また、右にあるのは、ハワイの歴史資料館として有名なビショップ博物館に展示されている、カメハメハ大王の肖像画だが、シャツに蝶ネクタイというスタイルのカメハメハは、あの有名な金色のマントの大王像とはまるで別人のように見える。




では実際のカメハメハとは、一体どんな人物だったのだろう。
カメハメハがいつ生まれたのか正確には分かっていないが、1758年あたりだと言われている。キャプテンクックがハワイ諸島を発見したのが1778年。カメハメハが20歳前後のころだ。当時はまだ多くの族長が各島々を治めていたが、この先10余年をかけてカメハメハがハワイ王国成立に成功するに至った理由は、いくつか考えられる。

元来ハワイの社会には、強い忠誠心が存在しなかった。部族間での婚姻が頻繁に行われ、族長が変わる度に平民は新しい族長の下で生活をした。自分の地域で戦いが起こり、トップが替わったからと言って、生活自体が大きく変わるという感覚はなかったのだろう。人々は物に対する所有欲がほとんどなく、日々生きていくために必要な物を地域で共有できれば、それで充足していた。

そんなハワイの社会で、人々にとって強烈なカリスマ性あふれる存在だったのがカメハメハだ。キャプテンクックがハワイ諸島を発見して以降、ハワイには西欧文化の大きな波が押し寄せてきた。彼らは銃を使い、それまでハワイには存在しなかった様々な鉄の武器や大砲、そして新しい戦略の知識も持っていた。カメハメハは、巧みな外交手腕と明晰な頭脳でそれらの白人の知恵や道具をうまく利用し、自分の勢力を徐々に他の島々に広げていった。実際のカメハメハはNHKの"みんなの歌"に登場した「ハメハメハ」のような人物ではなく、ハワイ統一の野心に激しく燃える男だったのだ。

また、ルックスに関して言えば、 "カメハメハは、大王像のような男前ではなかった"というのが通説だ。しかし体つきは頑強で力が強く、運動能力に優れており、族長としては魅力溢れる人物だったに違いない。私がよく通ったハワイ島のヒロ図書館の前には、カメハメハが持ち上げたと言われている「ナハ・ストーン」と呼ばれる石が横たわっている。しかしこの石の重さは、なんと3トン。人間がそんな石を持ち上げることなど不可能だ。カメハメハは半ば神格化されるほどの人物だったのだろう。

  29-image005.jpg        29-image003.jpg

〔ヒロ図書館に前にある、カメハメハが持ち上げた   〔カメハメハお気に入りのお后
言われる「ナハ・ストーン」〕                 カアフマヌ〕

だが、そんな彼にもたったひとつ弱点があった。それが、お気に入りのお后、カアフマヌの存在だった。かつてのハワイで、美の条件の1つとされていたのが、ふくよかであること。肌の色もひときわ白く、その腕は"皮をむいたバナナのよう"と称されており、多くの恋人がいたらしい。カメハメハは彼女の浮気にやきもきしていたそうだが、そんな記述を読むと、大王像から感じるスーパーマン的な印象の中に、血の通った普通の男の姿が垣間見えた気がした。

カメハメハは西欧文化を利用はしたものの、その統治下に置かれることを拒否し、ハワイの独立を守ろうとした。そんなカメハメハに対し、白人たちは強引な態度に出ることができなかった。しかし当時、まだ文字を持たなかったハワイの社会で、その強い姿勢を維持するのはたやすいことではなかったのだ。

カメハメハ亡き後、お后のカアフマヌは摂政として政治にかかわった。それまでのハワイには、生活すべてに関し事細かなカプ(タブー)制度があり、男女が同席して食事をすることや、女性がブタやバナナを食べることなど、多くのことが禁じられていた。カアフマヌはこれらのカプを廃止し、それまで力を持っていたカフナ(神官)たちの力を弱めるために、従来のハワイの宗教も禁止した。1820年、最初のキリスト教伝道師がハワイにやって来た後は、自らも洗礼を受けてエリザベスと名乗った。

その結果、カメハメハが堅守していた白人との壁が崩れ、世界のどの大陸からも最も遠く隔離された環境にあったハワイに、西欧文化がどっと押し寄せてくることになる。それがハワイにとって本当に良かったのかは、簡単に結論をくだすことができない。しかし、確実に言えることは、歴史の大波の力に逆らうことは、到底不可能だったということだ。

参考資料:THE HAWAIIAN KINGDOM (BY KUYKENDALL)
KAAHUMANU- MOLDER OF CHANGE (BY JANE.L. SILVERMAN)
MONARCHY IN HAWAII (BY JOHN DOMINIS HOLT)
THE POLYNESIAN FAMILY SYSTEM IN KA'U, HAWAI'I (BY E.S.CRAIGHILL HANDY AND MARY KAWENA PUKUI)