やさしいHAWAI’ I

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第18回:キベイ
2011年08月11日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】8月16日から1週間、ベトナムへ行く。丁度ハワイで生活をしていた1975年、ベトナム戦争が終結した。テレビでは毎日のようにPOWがアメリカに帰国する姿が映し出された。他人事とは思えなかった。それから40年近く経った今、ベトナムを訪れるのは、感慨深いものがある。
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毎週末集まるヨコヤマさんの友人の中に、Iさんという夫婦がいた。他の日系二世の人たちとちょっと違う雰囲気で、何となく気になっていた。

奥さんはハワイの日系人ではなく日本から来た人で、どことなく知性を漂わせた色白の女性だった。ご主人は穏やかな優しい雰囲気の日系人なのだが、日系二世特有のアクセントがない。私たちの日本語とほとんど変わらないのだ。それにIさんは、言葉だけでなく、雰囲気も他の日系二世とは違っているように思えた。

その後ヨコヤマさん宅での集まりでいろいろと話を聞いているうちに、Iさんがきれいな日本語を話す理由が徐々に分かってきた。滅多に話題に出てこなかったのだが、わずかな情報をかき集めると、第二次世界大戦が始まる以前に、Iさんは日本に行って明治大学に入学したらしい。明治大学では、当時このようにハワイやメインランドからの日系人を積極的に受け入れていたということだ。Iさんの両親は息子に日本での教育を受けさせたいと願い、彼を日本に送った。ところがそれから日米の間で戦争が始まり、Iさんはハワイに帰る機会を失い、日本に残った。

当時ハワイの日系一世は、自分達は移民としてアメリカ社会にうずもれるとしても、二世にはなんとかハワイの社会で成功して欲しいと強く願っていた。そのためにはまず教育だ。サトウキビ畑などで血の滲むような苦労を重ねながら、二世の教育のためにあらゆる犠牲を払った。その精神を受け継いだ二世は、白人の家庭で働きながら教育費を稼ぎ、必死に勉学に励む者も多かった。そういう青年達は「スクールボーイ」と呼ばれ、学業成績は大変良かったという。1940年以降の日系人の就学率は、白人を含むどの人種よりも高かったというから驚きだ。(「ハワイ日系人史」より)

日系人の大半はアメリカの文化に早くなじみ、堅実な中産階級を目指して、目立たないように暮らすことが最も安全と考えた。彼らが "Quiet American(静かなアメリカ人)"と呼ばれていたのもうなずける。その一方で、Iさんの両親のように日本に目を向ける一世もいた。彼らは子供たちを日本に送り、祖国日本の文化を学ばせたいと願ったのだ。こうして日本に留学し、その後再びアメリカへ戻った日系人は「帰米二世」または単に「キベイ」と言われていた。

第二次世界大戦が始まる以前にハワイへ戻った帰米二世は、そのたくみな日本語を駆使して、日本軍の暗号解読をしたり、日本の情報をアメリカ軍に提供したりしたらしい。一方、日本に残った日系留学生の大半は戦時中、学徒動員で軍需工場で働いたり、短波放送の傍受や翻訳をやらされたりした(「ハワイ研究への招待」関西学院大学出版会)。そのため、日本人である両親がアメリカにいて、アメリカ国籍を取得した息子は日本から戻れないという悲しい状況に陥ったのだった。

以前ヨコヤマさんが私にくれた、移民百年記念誌「ハワイ島日本人移民史」(ヒロタイムズ)のパホア町の名簿を見ると、Iさんの職業は「日本語教師」とある。ハワイに生まれ、日本に留学し、「キベイ」としてハワイへ戻り、日本人の妻との新しい生活を始めたIさん。この「日本語教師」の文字の陰には、言葉にはできない重い戦争の歴史が隠されている気がしてならない。しかしそれをあえて掘り起こしても一体何になるのか。戦争という大きな力に翻弄された人々の、悲しい人生が湧き出てくるだけではないだろうか。当時、「キベイ」という言葉さえ知らなかった私に、日本での生活を訪ねられても、Iさんは口を開かなかっただろう。日本とアメリカの狭間でのどうにもならない戦時下の運命など、語る言葉は見つかるはずもないのだから。