やさしいHAWAI’ I

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第40回:夢のサマーセッション③ 限りなく広がるハワイ愛
2013年07月12日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】いよいよ大好きな夏がやってきた。今年は長男の赴任先のジャカルタへ1週間ほど行ってくる。25年ぶりのジャカルタは、すっかり変貌しているらしい
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ハワイ大学での授業の中で、特に印象深かったのが、「ホクレア号」の船長、チャド・バイバイヤンがゲスト講師として招かれた時のことだ。

「ホクレア号」とは1975年、多くの芸術家や研究者の賛同を得て、アメリカ建国200周年記念事業の1つとして建造された、双胴船カヌーで、チャドはこのホクレア号について、その存在意義を様々な観点から語ってくれた。

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〔「ハワイ・オハナ」クラスの講師、クム・アーネラと、「ホクレア号」の船長チャド・バイバイヤン。〕 








〔「THE FLINTSTONE:「ホクレア号航
プロジェクト」から〕


彼の説明によると、ホクレアという名前は、ハワイ語のhoku(星)とle'a(喜び)、すなわち"喜びの星"という意味だそうだ。この船の建造目的は、"ハワイ先住民はいつごろどこからこの島にやって来たのか"という謎を解くこと。それまで主流だったのは『ポリネシア人は南米から漂流してきた』という説だった。

しかし、ポリネシアの伝統航海術を学んだナイノア・トンプソンが中心となって、これに異を唱えた。ポリネシア人は東南アジアからマルケサス諸島へやってきて、そこから北上し、紀元900年ごろハワイに定着した、というのが彼らの主張だ。生意気だが、私もこの主張に賛成だ。インドネシア、ハワイ、両方で生活した経験から、インドネシア語とハワイ語には、同じような言葉がいくつもあることが、以前から不思議に思っていた。たとえば"火"は、インドネシア語で"api"、ハワイ語で"ahi" そして、"死"はインドネシア語で"mati"、ハワイ語で"make"という。(この、東南アジアから太平洋の島々に広がる、同じような言葉を使うグループを『オーストロネシア語族』という)。

トンプソンたちはホクレア号を操って、太平洋に散らばる島々への航海を成功させた。2007年には、多くの日本人移民を輩出しハワイと関わりの深い沖縄を始め、瀬戸内海の周防大島、広島などを訪れ、最後は横浜港へ寄港した。この時のホクレア号船長が、今回のゲスト講師、チャド・バイバイヤン氏だったのだ。

ホクレア号の意味するところは大きい。この双胴船カヌーは、近代計器を備えておらず、かつて古代ポリネシア人が太平洋の島々へ拡散したと同じ航海術で海を渡った。エンジン、航海機器など持たない古代ポリネシア人のカヌーが、はるばる東南アジアからミクロネシアを経てポリネシアへ、さらにハワイへとやって来ることが可能であることを、このホクレア号は証明したのだ。

伝統航海術は通称「スターナビゲーション」と呼ばれ、航海の基本となるのは、「Wind(風)、 Wave(波)、 Wing(羽)」の3W。
風の声を聞き、波の変化に心を傾け、羽ばたく鳥の行方に目をやる。そして昼間は太陽の方角、夜には輝く星、月を頼りに双胴船カヌーを操って、あの広大な太平洋を渡ってきたのだ。彼らは一体何を目的として、この大移動を試みたのだろう?

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〔かつてポリネシア人が乗っていたものは、このような双胴船であっただろうと推測されている〕

それまでの居住地で人口が増加し食料が乏しくなったため、新しい居住空間を求めていたとか、ほかの島々との戦いで、自分たちの島を離れざるを得なくなったなどと、いろいろ推測ができるが、私はやはり彼らが"冒険"を求めていた、と思いたい。目の前に広がる広大な海を見て、その向こうには一体何があるのか、そこに待ち受ける新天地を求める気持ちを抑え切れなかったに違いない。

ホクレア号はハワイでは大変重要な存在で、特にハワイ先住民の血を引き継ぐ人々にとっては、自己確立の象徴となっている。自分たちがどこからどのようにしてハワイの地へ到達したのか、その謎を解き明かすカギとなるのだ。そのホクレア号の船長から直接話を聞けたことは、私にとって大きな思い出となった。それと同時に、私のハワイへの憧れは、かつて東南アジアの民族が未知の世界を夢見てハワイへやって来た気持ちと相通ずる気がして、私の"ハワイ愛"はますます大きく膨らんでいったのだった。