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第19回:アボリジニの言葉に再び命を吹き込んだ日本人
2012年09月19日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】1歳3ヶ月の娘は、戸棚や引き出しなど家中の扉を開けては中のものを引っ張り出します。毎日、しまっては出しての繰り返し...。子供の成長の早さには日々驚かされます。
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新聞.jpg先日部屋を整理していたら、ある新聞記事が出てきました。それは、消滅寸前の言語をアボリジニの人々に教える日本人男性についての話でした。

クイーンズランド州パーム島(Palm Island)のアボリジニ言語、ワルング語(Worrongo)は、1981年に最後の話し手・アルフ・パーマー(Alf Palmer/ワルング語名:ジンビルンガイ(Jinbilnggay))さんが死去。誰も話す人がいなくなりました。その言語を復活させようと立ち上がったのが、日本の国立国語研究所の言語学者であり、アボリジニ言語の専門家でもある角田太作さんです。

1970年代にオーストラリアに留学していた角田さんは、パーマーさんから伝統文化や狩猟に関する知識とともにワルング語を学び、これを修士論文としてまとめました。そして、最後のワルング語スピーカーであったパーマーさんが亡くなった後、角田さんは「日本人でありながら、世界でたった1人のワルング語が話せる人」となってしまったのです。

それからしばらくして、角田さんのもとにパーマーさんの孫であるレイチェル(Rachel)さんからワルング語を教えてほしいという連絡がありました。そして角田さんは再びパーム島を訪れることに。こうして約20年もの間、地元で誰にも話されることのなかったワルング語が復活することになったのです。

その後も角田さんは、大学で言語を教える妻・三枝さんの協力を得て、何度もパーム島に渡っては現地の人々にワルング語を教えています。角田さんが作ったワルング語の辞書や文法ガイドは、現在パーム島のアボリジニの子供たちの教育に使われていますが、その辞書を作ったのが日本人だと知って驚く人も多いのだそうです。

アボリジニ言語については、「単純で原始的なもの」と考えられていましたが、角田さんは「非常に系統的で洗練された言語である」と言います。そして、ワルング語を教えるときには、彼らの言語がどれほど素晴らしいものかを伝えようといつも心がけているということです。文法が複雑であるにもかかわらず、現地の人々は不思議とスムーズにこの言葉を習得しています。

アボリジニの人々はもともと文字を持たず、言語は口承で受け継がれてきました。オーストラリアには350から750の部族が存在し、それぞれに異なる言語を持っていました。しかし、現在では100ほどしか残っておらず、そのうち20余りを除いては、ほぼ消滅に近い状態です。そのような状況の中、角田さんの活動は、彼らの言語伝承に大きく貢献しています。言語はアボリジニの人々の間で文化や伝統を受け継ぐためにとても重要な役割を果たしており、またアイデンティティを保つために必要不可欠です。

「私がワルング語を話す最後の者だ。私が死ねば、この言葉も死ぬ。私の知るすべてをお前に教えるから、しっかりと残してほしい。(I am the last one to speak Worrongo. When I die this language will die. I will teach you everything I know, so put it down properly. )」というパーマーさんの言葉を忠実に実現した角田さん。同じ日本人としてとても誇りに思います。

第18回:ポジティブな未来の予感
2012年07月05日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】ここ数日、ブリスベンでは雨が降り続いています。おかげで庭はジャングルのように...。ああ、クイーンズランドのまぶしい太陽が恋しい...。
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18-1.JPG5月26日、「国家謝罪の日(National Sorry Day )」を記念した式典が、ブリスベン北部にあるカリンガ・パーク(Kalinga park)という公園で行われました。「国家謝罪の日」は、1997年の5月26日に"盗まれた世代(Stolen Generation)"(アボリジニの子供達を親から強制的に引き離し、施設に隔離する政策)ついて書かれたレポートが初めて公開されたことにより、定められました。そして2008年、この"盗まれた世代"の人々に対して、政府が初めて公式に謝罪。(第6回:忘れざる過去への謝罪 参照)その謝罪の記念碑がカリンガ・パークには設置されており、この日のセレモニーは、その記念碑を囲んで行われました。

18-2.JPGのサムネール画像当日は、小雨が降っていたにもかかわらず、大勢の人々が集まっていました。まず、オープニングでは、地元のエルダー(アボリジニの人々は敬意を込めて、年配者をエルダー(Elder)と呼びます)が、クラップ・スティック(Clap sticks)という拍子木を打ちながら歌を歌い、それに合わせてアボリジニの学生たちがウエルカムダンスを踊りました。そのあと、"盗まれた世代"であった人や、その世代を親や兄弟に持つ人、アボリジニの高校生などによりスピーチが行われました。また、"盗まれた世代"の政策のことを大人になるまで知らなかった学校の先生のスピーチなどもあり、どれも興味深い内容のものばかりでした。スピーチの合間には、ボディペインティングを全身に施した子供たちがダンスを披露。最初は恥ずかしそうにしていた子供たちも、皆の声援を受けながら3曲ほど踊りきり、得意げな様子でした。その姿がとても可愛らしく、会場もおだやかなムードに。観客の中にはその子供たちと同じ学校に通うアボリジニでない生徒もたくさんおり、普段見慣れない友人の姿を見て驚きつつも、彼らのパフォーマンスに感心しているようでした。

18-3.JPGこのように、アボリジニの子供たちがメインになってパフォーマンスをし、その姿を見た他の子供たちが、彼らと彼らの文化を誇りに思えるようなイベントを行うことはとても大切なことだと感じました。今回このイベントに参加して印象に残ったのは、アボリジニ以外の人々、特に学生が多かったこと。今までに参加したアボリジニイベントには、アボリジニの人がほとんどということが多かったのですが、この日はそれがとても印象的でした。アボリジニの歴史や過去の事実を何も教えないという学校も多かった数年前までに比べ、だんだんと学校教育も変わってきているのかもしれません。私の夫はメルボルンで育った白人のオージーですが、アボリジニの文化や歴史など、学校では何ひとつ教わらなかったのだとか。教わったのは「キャプテンクックが来て、オーストラリアを作りました」ということだけだったと言います。でも最近では、小学校で、オーストラリアの旗に加え、アボリジニやトレス海峡諸島民の旗などを掲げていたり、アボリジニの文化を勉強するために授業でブーメランを作ったりする学校もあるようです。

18-4.JPGネガティブな過去をなかったことにするのではなく、このような歴史的なイベントにも皆で参加し、生徒1人1人がその意味や歴史的背景を理解した上で、お互いを尊重し合うことができれば、こんなに素晴らしいことはありません。今後もこのように、学校でアボリジニの文化や歴史に関した教育をすることが定着すれば、アボリジニ以外の人々のアボリジニに対する見方や考え方が変わっていくのではないかと思います。この式典は、そんな未来への希望を感じさせるイベントでした。                                         左から、トレス海峡諸島民の旗、 
                                                                                       オーストラリアの旗、アボリジニの旗

第17回:ファントム島の隠された過去
2012年05月11日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】今日、ブリスベンにオープンしたモスバーガーのオープニングで、和太鼓を演奏してきました。すでにアジアではかなり展開しているというモスバーガーですが、オージーにはウケるのでしょうか...!?
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IMG_1313.JPG先月、ノワカの同僚エイミーが、あるアボリジニの人にまつわるドキュメンタリー 「ファントム島(Fantome Island)」の上映会を開きました。ファントム島はオーストラリア・クイーンズランド州の北東部、グレート・バリア・リーフ(Great Barrier Reef)の海に浮かぶ島のうちの1つ。この作品は、そのファントム島にハンセン病患者として送られた、ジョー・エグモリッス(Joe Eggmolesse)さんの物語です。

 かつて感染率が高いとされていたハンセン病患者は、1907〜1959年まで、ブリスベンの離島、ピールアイランド(Peel Island)に送られていました。ここで白人の患者はそれぞれに家を与えられましたが、アボリジニの人々は掘っ建て小屋で大勢の人々とともに共同生活を余儀なくされます。さらに1939年頃、アボリジニは白人と同じ治療を受けるべきでないとして、政府がアボリジニの人々を本土からもっと遠い、北部のファントム島に隔離。この政策は73年頃まで続きました。ファントム島に送られた人々の手当てをしていたのは、医師ではなく、北アメリカから来た尼たち。実際はハンセン病に感染していないにもかかわらず、アボリジニというだけで送られた人も多く、彼らは病気ではないと診断されるまで、島に監禁されていたそうです。また、島から逃げようとするアボリジニの人々は、警察により手錠をかけられたり、鎖でつながれたりすることもあったほか、ファントム島に送られるまで1ヶ月以上もの間、本土の刑務所に入れられていた人々もいたと言います。

ジョーさんは7歳のときハンセン病と診断され、家族から無理やり引き離された後10年間、ファントム島に拘禁されていました。このドキュメンタリーの中で彼は、ファントム島の同窓会「Fantome Island Remembrance Day」を機に再び島を訪問し、島で生活を共にした友人やその家族との再会を果たします。2010年に初めて行われたこのイベントは、ファントム島の歴史や、そこで生活した人々を忘れないようにするためのものでもありました。ジョーさんは、尼たちが先生をしていたという掘っ建て小屋の小学校や、島で亡くなった人々のお墓などを訪れながら、島で最初に行われた結婚式のことやルール違反をした際の厳しい体罰のことなど、当時の様子を語ります。さまざまな経験をする中、ジョーさんは島で出会った女性・モーリー(Molly)との間に子供を授かります。さらにモーリーがハンセン病から回復。喜ばしいことが続きましたが、これにより、彼女はジョーさんより早くファントム島を離れることになってしまいます。モーリーはその後、「盗まれた世代」の政策の一部としてドミトリーに送られ、ジョーさんに会えない生活が続きます。ようやく2人が再会したのは、それから11年後のこと。しかし、喜びもつかの間、その後間もなくモーリーは亡くなったということです。また、2人の間に生まれた娘のデイジー(Daisy)は、モーリーがドミトリーに送られた後、親戚に引き取られ、33歳になるまでジョーさんに会うことはなかったそうです。

現在73歳のジョーさんは、このドキュメンタリーを通して、自分の子供や孫たちに自分のストーリーを知ってほしいと語っていました。「つらい思い出も多いけれど、ファントム島は自分の故郷だ」と言う彼。家族とはなれて暮らしていたジョーさんにとって、モーリーはもちろん、自分の身を削って手当てをしてくれた尼たち、兄弟のような友人たちや、親代わりになっていろいろなことを教えてくれた人たちは、かけがえのない大切な存在だったのでしょう。

IMG_1311.JPG当時、ファントム島のアボリジニの人々は社会に存しないものとみなされ、「ファントム島」が作られる現在まで、この事実はずっと隠されてきました。ジョーさんの友人でもあるエイミーは、少しでも多くの人にこのことを知ってもらいたいと上映会を開きました。上映会に来ていた映画プロデューサーのシーン(Sean)によれば、この作品は偶然から生まれたものだとか。シーンがファントム島近くの離島で映画制作のワークショップをしていたとき、あるアボリジニの人々からたまたまこの話を聞き、ドキュメンタリーを作ろうと決意したそうです。もし彼がこの話を聞くことがなければ、今もファントム島の過去は闇に包まれたままであったのでしょう。上映会に来ていた人々も、まったく知らされることのなかった過去の事実にショックを受けているようでした。今後、このドキュメンタリーを通して、より多くの人がファントム島の歴史に目を向けるようになればいいと思います。多くの人に認識をしてもらうことで、ジョーさんを含めたファントム島出身者、また亡くなられた方々の家族は、この事実を受け入れ、前向きになることができるのではないでしょうか。

◆「ファントム島(Fantome Island)」オフィシャルサイト    http://www.fantomeisland.com/

第16回:『オーストラリア・デー』とアボリジニ
2012年02月24日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】出産のためしばらくお休みをいただいていましたが、やっと復帰しました!初めてのベイビーとの生活で、毎日忙しくも楽しい日々を送っています。これからまた少しずつアボリジニ情報を発信できればうれしいです。
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1月26日は「オーストラリア・デー(Australia Day)」と呼ばれる祝日で、1788年にイギリス人が初めてシドニーに到着したことにちなんで定められました。オーストラリアでは毎年、各地でこの日を祝うたくさんの祭典が行われます。国内では、大半の人がオーストラリアの生まれた記念すべき日と考える一方で、アボリジニの人々の中にはこの日を白人に侵略された日と考える人もおり、彼らにとっては悲しい過去を改めて思い出す1日でもあるのです。

今年、キャンベラで行われた祭典では、ジュリア・ギラード首相やトニー・アボット野党リーダーなどによる、緊急救助関係者の表彰式を実施。同じ頃、「テント大使館」にも、アボリジニの活動家たちが200人ほど集まっていました。「テント大使館」とは、アボリジニグループが40年前に先住民族土地権を主張して、ビーチパラソルを立てて座り込み抗議を行った場所です。土地権が認められた現在でも、先住民族国家の代表として守り続けられています。表彰式の前に、アボット氏はラジオで「昔はテント大使館にも意義があったかも知れないが、問題は片付いた。有効期限は過ぎたのだ。もう次に進むべきではないか」と発言。これに怒ったアボリジニ抗議グループの人々の多くが、表彰式場の窓ガラスを叩き、ギラード首相やアボット氏に対して「恥を知れ(shame)」とか「差別主義者(racist)」などと叫んだのです。

グループの抗議対象はアボット氏でしたが、ギラード首相のボディガードは首相にも危険が及ぶと判断。首相は50人ほどの警察官とボディガードに守られて避難しました。その際、首相の靴が脱げたのですが、それを抗議グループが拾い、「トロフィー」のように掲げました。

靴は抗議グループによって首相に返されましたが、実はこのとき、靴を持っていたのは私の友人、グエンダでした。彼女はノワカを通して知り合った女性で、この日は抗議デモのためキャンベラまで足を運んでいたようです。

事件が起きた数日後、私は別の友人、ルースさんに会いました。彼女はアボリジニ活動家で、子供たちの未来のために少しでもアボリジニコミュニティが良くなるよう常に働きかけている女性です。彼女は抗議グループの取った行動をニュースで見て、とても腹を立てており「グエンダたちがしたことは間違っている。私が今まで子供たちに"暴力で物事は解決されない"と教えてきたことが水の泡になってしまった。彼らは何があっても暴力的な行動にでるべきではなかった」と語っていました。

確かにアボット氏の発言は不適切ではありました。しかし抗議グループの取った行動は、 アボリジニに対するイメージをネガティブなものにし、その場にいなかったアボリジニの人々にも非難の目が向けられたことでしょう。もちろん抗議者全員が暴力的な行動に賛成していたわけではないでしょうし、その場の勢いのようなものもあったのだと思います。

グエンダがキャンベラに向かった目的は、オーストラリア・デーへの抗議、そしてテント大使館40周年を祝うことであり、あのようなことが起こるとは想像していなかったはずです。彼女はとても優しく、かつ情熱的な女性で、いつも地域のアボリジニの人々のためにさまざまな活動を行っています。ただ、知らない人からすれば、グエンダもやはり「暴力的な抗議グループの1人」なのです。今回のようなことで、同じようにアボリジニコミュニティを良くしようと活動している人同士が対立するようなことになっては残念です。

問題はメディアにもあります。ニュースは「首相がアボリジニ集団に攻撃され、命からがら逃げました」ということに焦点を当てた話ばかりで、抗議グループに対する視線は厳しくなるばかりです。インターネットのブログなどでも「もう政府も謝罪したし、アボリジニはこれ以上、いったい何がほしいのか」といったような内容のものもいくつか見られました。

私個人としては、「オーストラリア・デー」という名前、もしくは日にち自体を変えるべきではないかと思います。 確かに、いつまでも過去を引きずっているわけにはいきません。でも長年にわたり、多くの屈辱を受けてきたアボリジニの人々にとって、この日が「侵略の日」であることに間違いはないのです。まずは本来の住人であるアボリジニの人々をリスペクトし、その上でお互いを尊重し合って、平和な社会を築いていけるといいと思います。

◆今回の 「オーストラリア・デー」 にまつわるニュース映像 
「Julia Gillard Attacked in Riot」
http://www.youtube.com/watch?v=wo9BPqIols8
「Australian PM gets her shoe back after protest scuffle」
http://www.youtube.com/watch?v=9fcX94BLO28

第15回:アボリジニの少年犯罪
2011年04月14日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】実は現在妊娠中で6月に出産予定です。そこで今月から数ヶ月の間、コラムをお休みさせていただくことになりました。今まで私のコラムを読んでくださったみなさま、本当にどうもありがとうございます。また復帰しだい、よろしくお願いいたします。
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ノワカでは、罪を犯したり、少年院に入っていたりした少年・少女たち向けプログラムを行っています。プログラムの内容は、「ライフスキル」「スポーツ」「アート」「ミュージック」などさまざまです。私のノワカでの仕事は広報関連なので、普段あまりプログラムに関わることはないのですが、2〜3月は特別プログラムを実施するということで、ジャパニーズクッキングを3週にわたり教えることになりました。

メニューは"安い、簡単、お腹にたまる、彼らの口にも合いそう"を基準に『コロッケ』『タコライス』『そぼろどん』の3食を選びました(タコライスはジャパニーズとも言えないかもしれませんが...)。

soboro.jpg少年6人&アボリジニ男性ユースワーカー(Youth worker: 青少年指導員)3人を相手に、米の研ぎかたを説明し、料理酒を飲もうとする少年を止めたりしながら、なんとか3回とも無事終了......。まずいと言ってキレられたらどうしようかと内心ヒヤヒヤしていましたが、どれも彼らのお口に合ったようで、一安心でした。プログラムの最中に喧嘩などのトラブルが起こることもしばしばあるのですが、みんな最後の洗い物も掃除も文句ひとつ言わずやってくれました。

数日前、プログラムに参加していた少年に道端でばったり会ったのですが、すれ違いざまに笑顔で「That tucker was deadly!」(tucker:アボリジニの人々が"meal(食べ物)"の意味でよく使う言葉、 deadly:同じく"so good(とても良い)"の意味) と言ってくれ、とても嬉しかったです。

このように私もプログラムに参加したり、職場で会ってBoys.jpgアボリジニの少年たちと話をしたりする機会がときどきあるのですが、みんな基本的にはとても明るく性格の良い子たちばかりです。でも悲しいことにノワカばかりでなく、オーストラリア全体を見ても、アボリジニの少年犯罪は頻繁に起こっています。ノワカのコミュニティを見ていても感じるのですが、アボリジニの子どもたちは13〜14歳で学校に行かなくなり、何もしない退屈な生活の中で刺激を求め、犯罪に手を出してしまうケースが多いようです。アボリジニの子どもたちが学校に行かなくなる理由はさまざまですが、主な原因は学校教育に窮屈なものを感じたり、差別されたりすることのようです。

昔はアボリジニにはアボリジニの教育方法があり、それに従って文化や生活習慣を代々受け継いでいました。しかし白人社会が浸透した現在ではその習慣も失われ、家族からは何も学べない、でも学校の教育方針にも馴染めず学校にも行かない、という子どもたちが多くいます。

また、アボリジニコミュニティで問題になっているアルコール中毒の親から生まれた子どもや、親が教育を放棄し、ホストファミリーに育てられている子どもたち、刑務所やストリートで生まれた子どもたちなども多く、彼らが犯罪に手を出す可能性が高いのも悲しい現実です。

よくアボリジニの大人たちは「少年院はアボリジニの学校。どこの少年院出か聞けばそいつの出身がわかるよ」などと冗談を言ったりします。そして実際に、少年院や刑務所にいたことのある人がとても多いのです。

しかし、そうなる理由は、アボリジニの人たちの犯罪率が高いからというばかりでなく、警察もアボリジニの人々を目の敵にしており、通常であれば厳重注意で済む状況であってもアボリジニというだけで即逮逮捕、などということが頻繁に行われているためでもあります。また、不公平な社会に対し反感を持つ若者も多く、さらに罪を犯す...という悪循環になってしまっているようです。

こういった状況の中で、ノワカのユースワーカーたちを含め、若者たちの未来のためにアボリジニコミュニティを少しでも良くしようとする人々もたくさんいます。そういう人たちも昔は非行少年であったというケースも多いのですが、だからこそ、若者たちに伝えられることが多いのでしょう。今後はアボリジニの若者たちが、自分がアボリジニであることを誇りに思い、胸を張って生きられる社会になっていくことを願っています。そうすれば、少年犯罪もおのずと少なくなり、アボリジニコミュニティの明るい未来につながるのではないかと思います。

※「最近の私」にもあるとおり、このコラムはしばらくお休みになります。メイソンさんの復帰をお待ちください!

第14回:盗まれた子供たち(Stolen Children)のトゥルーストーリー
2011年03月18日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】日本での大災害のことは、オーストラリアのメディアでも毎日報道されています。海外のニュースでは異例のことであり、映像を見るたびその被害の大きさにただ愕然とするばかりです。こちらからは募金をすることぐらいしかできず無力さを感じますが、一刻も早い復興と、もうこれ以上の災害が起こらないことを心からお祈りしています。
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3年ほど前、ある本を読みとても衝撃を受けました。その本は、第6回でお話した"盗まれた子供たち(Stolen Children)"の1人であるルース・ヘガティー(Ruth Hegarty)さんによって書かれたもので、彼女が14歳まで育ったドミトリー(収容施設)での生活が綴られています。その本の題名は「Is That You, Ruthie?」ルースさんはこれまでに2冊の本を出版しており、これは彼女が最初に書いた本です。以前から"盗まれた子供たち(Stolen Children)"のことは知っているつもりでしたが、この本を読み、自分がどれほど無知であったかということに気付かされました。当時ドミトリーでどのようなことが行われていたか、そこで過ごした人々がどのような体験をしていたかが詳しく書かれています。

この本を読んだ数ヶ月後、ブリスベンの図書館で"Author & Writer's week "というイベントが開催され、そこでルースさんにお会いすることができました。当時78歳の彼女はステージで「Is That You, Ruthie?」に関するスピーチを行っていました。スピーチのあと、運よく彼女と少し話すことができ、その後も何度かノワカを通して会う機会があり、今ではとても親しくしています。ルースさん(私は Aunty Ruthieと呼んでいます)は今年2011年の4月に3冊目の本を出版するそうなので、今回は彼女と彼女の本について少し紹介したいと思います。

ルースさんは、1929年生まれのアボリジニの女性。4歳のときには母親から引き離され、14歳までをドミトリーで過ごしました。ドミトリーでの生活はまるで刑務所のようであったと彼女は言います。親から引き離された幼い子どもたちはみな、同じ服を着せられ、頭を丸刈りにされたそうです。そして何かほんの小さな違反をするたびに鞭で何度も打たれました。その鞭は刑務所の囚人に使われていたものと同じものであったそうです。少年たちには下着は与えられず、ベルトやサスペンダー代わりに古い服の切れ端や、ボロ切れなどを使っていました。ベッドもまともなものではなく、床に小さなマットのようなものを敷いて寝ており、おねしょをすれば、そのまま濡れたマットで何日も寝なくてはいけなかったそうです。ルースさんは当時のことをときどき話してくれます。「Is That You, Ruthie?」の中に書かれているストーリーは自分自身の経験であるとともに、ドミトリーで生活を送ったすべての子供たちの声でもあると彼女は言います。母親や家族から引き離されたことによる心の痛みや悲しみ、そして家族から受けるはずの愛情の代わりに受けた厳しい規律や不公平な扱い......。今でも当時のことは決して忘れられないそうです。ただ、そのような状況の中で共に育った友人たちとの絆は強く、彼らはみんな自分の兄弟、もしくはそれ以上の存在だとルースさんは語っていました。その友人の1人、ダルシーからの突然の電話で彼女は、「Is That You, Ruthie?」を書くことを決意したそうです。

ルースさんは、14歳までドミトリーで過ごした後、家事使用人として裕福な白人家庭へと送られました。その後、22歳のときにアボリジニ男性と結婚し、8人の子どもを授かりました。第2冊目の本「Bittersweet journey」は、ルースさんが結婚したばかりのころのストーリーです。その頃にアボリジニだからという理由で受けた政府の不平等な扱いの下で、いろいろな問題と向き合ってきたルースさんの生活が綴られています。

また彼女は過去30年以上の間、ボランティアで若者やお年寄りのためのさまざまなプロジェクトに携わってきました。ルースさんは81歳の今でも「アボリジニコミュニティを良くするために何かできること」をいつも探し求め、実践しているアボリジニ活動家です。過去のつらい思い出や経験を活かし、人々の役に立ちたいという姿勢を常に忘れない彼女を私はとても尊敬し、応援しています。
 まさに波瀾万丈という言葉がふさわしいルースさんの人生。これらの本には彼女の人生のストーリーが綴られています。興味のある方はぜひ読んでみてください。

Is That You RuthietestIs That You Ruthie.jpg「Is That You, Ruthie?」
1989年 "Queensland premier's Literary Awards"受賞
http://www.amazon.com/That-You-Ruthie-Ruth-Hegarty/dp/070223415X






Bittersweet Journey.jpg「Bittersweet Journey」






第13回:アボリジニと日本人の意外な歴史
2011年02月17日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】最近、夜、散歩をしていると、ポッサム(オーストラリアのフクロギツネ)をほぼ毎回見かけます。電線を器用に渡り、木と木を行き来しています。数日前は、親子を発見。ミニポッサムがお母さんの背中にへばりついていてかわいかったです。
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先日ノワカでThursday Island(木曜島)出身の女性、ジェニーと話す機会がありました。木曜島はニューギニア島とオーストラリアの間、トレス海峡の南に位置するオーストラリア領の島。木曜島には多くの先住民(アイランダー)の人々が住んでおり、ジェニーもそのうちの1人です。彼女の話によると、木曜島には大勢の日本人が住んでいるとのこと。しかもほとんどが一時的な滞在者ではなく、代々そこで暮らしている、元真珠貝ダイバーたちの家族だということでした。

1870年代頃から、真珠貝を採集する多くの日本人ダイバーがオーストラリア北部および北西部に出稼ぎに来ました。そのままオーストラリアに根を下ろした人々もいたため、現在もこれらの地方で多くの日本人が暮らしているのだそうです。

ジェニーの友人の日本人にも、父親が元真珠貝ダイバーでアボリジニ(アイランダー)と結婚し、そのまま木曜島に住み続けている人がおり、他にも日本人とアイランダーを両親に持つ人を大勢知っていると言っていました。「If you walk around there, they think you are one of the locals.(もしあなたが木曜島を歩いていても、みんなあなたのことをローカルだと思うわよ)」ということです。以前、私は西オーストラリア州ブルーム(Broome)の日本人ダイバーに関する本を読んだことがあったので、ブルームに日本人が多いことは知っていましたが、木曜島のことは初耳でした。

かつてオーストラリアで真珠をとる目的は、高級ボタンの材料として使われていた貝殻を取るためでした。60年代には、日本から技術を導入して真珠養殖が始まり、それが新たな基幹産業として成長していったそうです。真珠の採取は苦しく危険な作業でしたが、日本人はその優れた能力と根性でよく知られ、高い評価を受けていたそうです。当時のオーストラリアでは、白豪主義(*)の影響により、白人以外の人種の入国が厳しく規制されていましたが、こうしたことから日本人ダイバーだけは例外として受け入れが続いていたのです。彼らは地元の人々(その多くはアボリジニやアイランダーなど先住民)との交流も深く、みんなで協力し合い作業をしていたそうです。

木曜島やブルームには、今でも採貝作業中の事故などで亡くなった人たちの日本人墓地が残っています。この真珠採集の長い歴史を記念し、ブルームでは、年に1度「真珠祭(Shinju Matsuri Fsttival)」というお祭りが開催されています。今年で40年を迎えるこのお祭りは、今やブルーム最大の文化イベントとなっているそうです。(http://www.shinjumatsuri.com.au/index.html

このように日本人と木曜島やブルームの人々とは歴史上、深いつながりがあります。ジェニーの話では、不当な扱いに耐えながらその時代を共に生き抜いてきた日本人とアボリジニの人々は、深い絆で結ばれていたということです。

マリーとマサトラ.jpg私が以前読んだ、ブルームでアボリジニの女性と結婚した日本人ダイバーの本を紹介します。もし興味があれば読んでみてください。

「マリーとマサトラ--日本人ダイバーとアボリジニーの妻」 中野 不二男 (著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4163408703.html



*白豪主義:1901年〜1973年までオーストラリアで施行された白色人種以外の移民を制限しようとする白人第一主義政策のこと。この政策により白人以外の有色人種は入国を拒まれ、すでにオーストラリアで暮らしていた人々も劣等な人種として不当な扱いを受けました。

第12回:"時間"を持たないアボリジニの人々
2011年01月21日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】クイーンズランドでは、昨年末から続いた大雨の影響で歴史的な大洪水が起こりました。ブリスベン各地の人々が被害を受け、亡くなった人や行方不明になった人も大勢います。もう2度とこのような災害が起こらないことを心から祈っています。
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今回の原稿を書くにあたり、「新年」「お正月」というテーマをいただきました。しかし、これにはいくら頭をひねってもふさわしい話題が浮かんできません。というのも、元々アボリジニの人々は時間という概念を持っておらず、お正月どころか日本の「季節の行事」にあたるようなものは存在しないのです。もちろん現代のアボリジニ、特に都市部に住む人々は他のオーストラリア人と同じように、クリスマスや年明けを祝います。クリスマスは家族と盛大に過ごし、大晦日は友達とビール飲みながらカウントダウン。しかし、お正月を祝う習慣はなく、年が明けるといつもの週末とかわらず、BBQしたり、フットボールを見たり、ビーチに行ったりしています。ブリスベンのアボリジニの人たちもまさしくそんな感じです。

というわけで、「お正月」というテーマからは外れてしまうのですが、今回はアボリジニの人たちの"時間"に対する考え方について書いてみたいと思います。

前述したようにアボリジニの人々に過去や未来という時間の概念はありません。現代でも伝統的な生活を送っているアボリジニの人々は、"何時に待ち合わせ"とか、"何時から何時までこれをする"というように時間によって予定を立てることをしません。また、自分の年齢を知らない人々も大勢います。

彼らが時間の代わりに持っているのは「ドリームタイム(ドリーミング)」という考え方。祖先から伝わる数々の天地創造の神話を語り継いでいくことを指しています。天地創造の神話も大昔のできごとではなく、現在、そして未来へと続くと考えており、人々は、今この瞬間もドリームタイムをたどり続けているのです。アボリジニの人々は、ドリームタイムをそれぞれの生活に反映し、常に結びつきを保ちながら暮らしています。つまりドリームタイムは神話でもあり、歴史でもあり、また彼らが生活をする上での大切な概念でもあります。多くのアボリジニアート(ペインティングなど)には、そのアーティストのドリームタイムを表現しています。アボリジニの人々はもともと文字を持ちませんでしたから、アートによって、神話や概念、伝統を受け継いでいったのです。

ドリームタイムには確実な定義がなく、はっきりしたことは誰にも分かっていません。世界中の学者達が長年議論しているのに、いまだに確実なことはよく分かっていないそうです。アボリジニの人達も、地域や人によって異なる説明をします。でも、ドリームタイムとはこういうものであるという話を受け継いでいくこと、そしてそれを理解しようとし、自分の生活の中に取り入れて考えてみること、それ自体もドリームタイムなのではないかと私は思っています。

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      エミュー(オーストラリアネイティブのダチョウ)の卵にペインティングをした作品

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     ブーメランにペインティングをした作品

第11回:アボリジニコミュニティでの家庭問題
2010年12月17日

【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】今年のクリスマスは、メルボルンで夫の親戚と過ごしました。100人以上の超ビックなファミリーなので名前を覚えるだけで一苦労です...。
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数ヶ月前のある日、ノワカに1本の電話が入りました。出てみると、相手はシェリーと名乗る女性で、チアはいるかと聞かれました。自分だと答えると(オージーが"チエ"と言うと"チア"になる)、シェリーは、妹と子供たちが家に閉じ込められているから、助けてほしいと言うのです。よく話を聞いてみると、彼女の妹とは、ノワカコミュニティのママの1人、ニコールのことでした。

私は以前、地域の子供たちを集めてゲームやスポーツなどをするプログラムを担当していたことがあり、それを通してニコールの子供たちに出会いました。子供たちの送り迎えをするたびに、ニコールと会っていたので、彼女とは仲がよくなりました。

しかし、そのニコールと子供たちが閉じ込められているとは一体どういうことなのでしょう。焦りと不安でドキドキしながらも話を聞くと、閉じ込めたのは、なんと彼女の夫だとのこと。「夫って、あのいつも子供たちを学校まで迎えに行ってる優しそうなケニー!?」と、私は一瞬耳を疑ってしまいましたが、彼はどうやらアルコールが入ると人が変わってしまうそう。普段は優しいけれど、酔っていると、ニコールに暴力を振るうこともあるのだとか。彼はニコールと子供たちを家に閉じ込め、外から鍵をかけてどこかに行ったきり24時間以上戻ってこないとのこと。ニコールの携帯には、電話をかけるだけのクレジットが残っておらず、お姉さんにメールで私に電話をするように伝えたのだそうです。ニコールは半年くらい前に4人目の赤ちゃんを産んだばかり。これは早くなんとかしなければ、子供たちも危ないかもしれない。私はどうしていいかわからず、まずボスに相談をしました。ボスはすぐに家庭内暴力防止センターに電話し指示をあおると、そういうケースはとても危険なので、すぐに警察に連絡をするようにと言われました。単独での行動は絶対に避けた方がいいとのこと。ニコールのお姉さんに警察は呼ばないでほしいと言われていたので何だか悪い気がしましたが、ボスは安全上やむを得ないと言いました。

そこで今度は警察に電話をし、状況を説明。警察によると、彼はまだ家の周りにいるはずだとのこと。作戦としては、まず5人のポリスマンが現地に向かい、離れた場所にパトカーを停め、彼らの家の周辺に隠れて待機する。そして私たちノワカスタッフが普段を装い家を訪れ、彼が出てきたところを確保する...というもの。しかし実際には、私たちが家に着く前にケニーは戻って来ました。私たちがたじろいでいると、2人のポリスマンがすぐさま出て来て、何かケニーに話した後、手錠をかけました。ケニーは暴れることもなく、すんなりと手錠をかけられ、別のポリスマンが迎えに来たパトカーに乗って、連れていかれました。

そのあと残ったポリスマンたちによってドアが開けられ、泣きはらした目をしたニコールと子供たちが出てきました。彼女の額には殴られたような跡がありましたが、子供たちは状況が把握できていない様子でいつも通りニコニコしていました。

数日後、ニコールに電話してみると、ケニーは釈放されて、彼のお姉さんのところで療養中とのことでした。お姉さん曰く、ケニーは自分でもよくわかっており、酒を止めようと努力はしているものの、なかなか止められない状況が続いていたということ。

それから数ヵ月経ったつい先日、道端でばったりケニーとニコールと彼らの4人目の赤ちゃんに会いました。ケニーは軽くあいさつだけすると、恥ずかしそうにどこかに行ってしまいしたが、ニコールも赤ちゃんもとても元気そうでした。ニコールは、「あれ以来ケニーはお酒を口にしていないし、これからも飲むつもりはないと言って頑張っているの」と言って嬉しそうにしていました。

残念なことに、ケニーに限らず、アボリジニコミュニティでの家庭内暴力は珍しいことではありません。ほとんどの場合はアルコールやドラッグが原因です。ノワカでは、アボリジニ男性を対象にしたプログラムを実施することを予定しています。参加者は男性限定、彼らが現在抱えている問題や悩みをオープンに打ち明けられるスペースを作ることが目的です。このプログラムが、少しでもアルコール中毒などによる家庭内暴力に悩む男性とその家族の役に立ってくれることを願っています。

第10回:超オススメのアボリジニ映画「Samson and Delilah」
2010年11月26日


【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】Coming soon...
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先日「Samson and Delilah(サムソンとデライラ)」というアボリジニ映画をDVDで観ました。実は、この映画を観るのは劇場を含め、これで3回目。私は普段あまり映画を繰り返して観るほうではないのですが、これだけは本当に何度観ても素晴らしいと思える作品です。

2009年に公開されたこの映画は、カンヌ国際映画祭カメラ・ドールや、米国アカデミー賞外国語映画賞など、数々の名誉ある賞を受賞しました。監督はWarwick Thornton(ワーウィック・ソーントン)。オーストラリアでも数少ない、アボリジニの映画監督です。彼にとって同作品は、初めての長編映画でした。舞台となったのは、監督の出身地でもあるオーストラリア大陸の中央部、Alice Springs(アリススプリングス)。この地域には多くのアボリジニ・コミュニティがあり、現在でもほとんどの人々が独自の言語を話します。そこで暮らす、十代の男女の生き様を描いた物語です。

ガソリンを吸ってハイな気分になるばかりの日々を送っているサムソンは、祖母の看病をして暮らすデライラに恋をする。ある日、デライラの祖母が亡くなり、それをきっかけに2人はアボリジニ・コミュニティを抜け出す。しかし、現実は厳しく、2人は、さまざまな障害にぶち当たる。住むところもなく、橋の下での生活を余儀なくされた2人は、生活のため、万引きをして飢えをしのぐ毎日を送る。デライラは小銭を稼ぐため絵を描き売ろうとするが、見向きもされず、サムソンは、現実逃避のため、さらにガソリンを吸い続ける。そんな中、デライラに更なる不幸が訪れる......。

この地域出身のワーウィック監督だからこそ描けた、アリススプリングスでのリアルな生活。アボリジニの人々が直面する厳しい現実が描かれており、胸が痛くなるような内容にもかかわらず、最後に感じるのは2人のたくましさと愛情です。

主演の2人、サムソン役のRowan McNamara (ローワン・マクマナラ)とデライラ役のMarissa Gibson(メリッサ・ギブソン)も、このアボリジニ・コミュニティ出身。なんと2人は、今回の映画のためだけに選ばれたまったくの素人で、本映画が彼らのデビュー作だったようです。この2人の間にはほとんどセリフがなく、それがこの映画の大きな魅力となっています。そのため、英語や、彼らの言語が理解できなかったとしても、十分楽しむことができると思います。もし興味があれば、観てみてください。絶対オススメです。

「Samson and Delilah」だけでなく、素晴らしいアボリジニ映画は他にもたくさんあります。ただ、過去に日本で公開されたものとしては、以前、第6回でも紹介した「Rabbit-Proof Fence(裸足の1500マイル)」を含め、ほんの数本しかないようです。

以下に、その他のアボリジニ映画を少し紹介します。将来、日本でも、もっとアボリジニ映画が紹介されるようになれば嬉しいです。

1:「Samson and Delilah」

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公式サイト(英語)
「Samson and Delilah」プレビュー





2:「Ten Canoes」 
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公式サイト(英語)
作品紹介(日本語)





3:「Beneath Clouds」 
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IMDb(英語)
作品紹介(日本語)





4:「First Australians」
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2010年4月より毎週日曜日に放送されていたテレビ番組をまとめたDVD。以下のサイトからも視聴可能。今まで明かされることのなかったアボリジニの悲惨な過去が、すべて語られています。
公式サイト(英語)