【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている
【最近の私】今季のWリーグ(女子バスケ)は、女王JX⁻ENEOSが6連覇。でも敗れたデンソーの戦いには、心を揺さぶられるものがあった。来季の活躍が、今から楽しみだ。
特撮作品に登場するミニチュアの建物は、時代劇の大部屋俳優に似ている。『桃太郎侍』や『暴れん坊将軍』に、バタバタと倒されていく端役たちは、斬られっぷりの見事さも含め、主人公の強さを表現するために欠かすことのできない存在だ。怪獣が破壊する建物も、その点で変わりはない。体当たりでガラガラと崩れたり、怪光線で爆発したりする場面があってこそ、怪獣の脅威は視聴者に伝わるだろう。
でも、そんな重要な役割を与えられながら、ほとんどの特撮セットのミニチュアは大部屋俳優同様、記憶に残らない。たいていが、特徴のない四角いビルなのだから、それも仕方がないだろう。ただそれだけに、実在するランドマーク的な建造物が登場すると、強い印象を残すことにもなる。代表的なのものが、お城の天守閣や東京タワーだ。
『モスラ対ゴジラ』に登場した名古屋城は、高さがゴジラの背丈ほどもあって重量感たっぷり。貫禄という点では、日本の怪獣王にまったく負けていなかった。『ウルトラマン』の第27話「怪獣殿下 後編」に登場した大阪城も、実に堂々とした外観だ。そして、普通のビルのように簡単に破壊されたりしない。屋根や壁が崩されていく中、骨組みはしっかりとしたまま。まるで、リング中央で仁王立ちしたヘビー級ボクサーが、ノーガードで「もっと打ってこい!」と言っているかのような雰囲気だ。最後はほとんど跡形もなく壊されてしまうけれど、その"やられっぷり"は見事だった。
また、東京タワーほど、数多くの特撮作品に登場した建造物もないだろう。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督が"大スター"と呼ぶほど、特撮界では別格の存在だ。城の天守閣とは対照的に、すらっとした細身のスタイル。無粋な四角いビル街の中、赤い衣装をまとったその立ち姿は、特撮セットの貴婦人といっても過言ではない。華奢なだけに、初代ガメラにはあっけなく根元から倒され、『ウルトラQ』ではガラモン(第16話「ガラモンの逆襲」)に簡単にへし折られてしまうが、それはそれで潔い"やられっぷり"とも言える。
東京タワーが特撮界の大スターと言えるのは、登場回数の多さや見た目の美しさだけが理由ではない。ただのやられ役ではなく、物語の展開上、重要な役割が与えられていたからでもある。『モスラ対ゴジラ』では、モスラ(幼虫)が折れた東京タワーの根元に繭を作った。「成虫になる前に何とかせねば、東京は破滅する」という緊迫感が、物語中盤の見せ場になっている。『キングコングの逆襲』では、コングとロボットのメカニコングが東京タワーによじ登って戦う。この場面が映画のクライマックスだった。
そして、やられる一方ではなかったことも、東京タワーが他のミニチュア建造物と一線を画している点だ。『ウルトラQ』の怪作、第19話「2020年の挑戦」では、(東京タワーから)光線を発してケムール人を倒している。おそらく、戦闘目的ではない一般の建物によって、怪獣・宇宙人が倒された唯一の例だろう。そういった意味でも、東京タワーは特撮界の大スターと呼ばれるにふさわしい。
天守閣や東京タワー以外にも、印象に残るミニチュア建造物は多い。国会議事堂や国立競技場、銀座・和光のビル、黒部ダム、凱旋門などなど。不思議とお寺の五重塔は登場していないようだけれど、怪獣と並べればいい絵になりそうだ。東京ビッグサイト(東京国際展示場)のようなユニークな形のビルや、サグラダファミリアのような巨大聖堂も面白い。果たして東京スカイツリーは、東京タワーの地位を脅かせるだろうか。そんな特異な目線で建築物を楽しめるのも、特撮ファンならでの特権(?)に違いない。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】『進撃の巨人』が映画化される。メガホンをとるのは樋口真嗣監督。『巨神兵東京に
現る』で、ミニチュア特撮の神髄を見せてくれた監督だけに、昭和特撮ファンの僕ら
には期待できそう。
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ヒーロー番組の悪役は、刺激の強い香辛料に似ている。たとえば、四川風麻婆豆腐の山椒。実のところ、僕はあの舌が痺れる辛さが好きではない。だけど、全く入っていないと物足りない。ラーメンに入れるおろしニンニクには、魔性とも言うべき魅力がある。「口臭が...」と思いながら、ついつい多めに入れてしまう。
悪役には、癖になりそうな魅力がある。Chewing Overで
『戦え!シネマッハ』を書いている鈴木純一さんも、悪役に魅了された一人だろう。同ブログ内のシリーズ「悪役を語るコラム」で、10人以上の悪役について書かれている。まだ登場していない悪役で僕が推すのは、ルトガー・ハウアーが『ブレードランナー』で演じたレプリカントだ。もし鈴木さんが書く予定だったら申し訳ないので、多くは語れないけれど、これだけは言わせてください。あのラストシーンのセリフ、カッコ良すぎますって!ね、鈴木さん。
特撮番組で印象に残る悪役といえば、タイガージョーとハカイダーだ。前者は、特撮時代劇『快傑ライオン丸』に登場する隻眼の剣士。後者は、この5月に新作映画が公開予定の『人造人間キカイダー』に登場するアンドロイド。ともにヒーローに負けない強さを誇り、昭和の特撮ファンの間で人気が高い。
タイガージョーのモチーフは、もちろんトラだ。ライオンにとって最大のライバルを持ってきたところに、制作サイドの意図が窺える。つまり、ライオン丸とタイガージョーを同等、あるいはそれに近い存在として描こうということだろう。両者が名乗りを上げる場面にも、それは表れている。ライオン丸の口上が「ライオン丸、見参!」なのに対して、タイガージョーは「タイガージョー、推参!」だった。
柳生十兵衛や丹下左膳と同じ隻眼という設定も、タイガージョーを魅力的に見せようとする工夫だろうか。手負いの戦士は、歴戦の勇者という雰囲気があって強そうだ。さらにタイガージョーは、悪役には珍しくテーマ曲を持っていた。ギターの伴奏で口笛が奏でるウェスタン調のメロディーは、どこか哀しさが漂う。やがて彼に訪れる悲劇を、暗示するかのように...。
いわゆるカッコ良さでは、ハカイダーも負けてはいない。黒を基調とした悪役らしいデザインは、見た目からして強そうだ。逆に愛車のオートバイは白で、その名も"白いカラス"。あえて黒にせず、そしてこのネーミング!誰の命名かわからないが、シャレているではないか。また、ハカイダーはダーティーハリー顔負けの破壊力を持つ、ハカイダーショットという大型銃を持つが、刀にしろ銃にしろ、男の子は武器が大好きだ。ブルース・リーがヌンチャクを使っていなかったら、果たしてあれほど人気が出ただろうか。
ハカイダーには、テーマソングがあった。キカイダーを倒すことが俺の使命と、明快に自分の存在意義を歌う。タイガージョーのテーマ曲とは対照的に、勇壮な雰囲気のメロディーだった。特にトランペットとドラムの奏でるイントロが秀逸で、ヒーローのテーマソングにもなってもおかしくないほど。ハカイダーに込められた制作者の思いが、そこからも読み取れる。
タイガージョーとハカイダーには、もうひとつ共通点がある。彼らの最大の魅力とも言えるそれは、信念に基づいて己の目的を追求し続けたことだ。タイガージョーはもともと、剣の道を究めんとする武士だった。たとえ邪剣と言われようが、勝った者が強いのだと信じ、悪に魂を売ってタイガージョーとなる。彼がライオン丸と戦ったのは、自分の強さを証明するためでしかなかった。ハカイダーも、それによく似ている。彼が受けた指令はただ一つ、「キカイダーを破壊せよ」。それ以外のことは、眼中になかった。2人の頭の中には、人類に不幸をもたらそうなどという邪悪な概念はないのだ。それどころか、タイガージョーは卑怯な戦い方を嫌ったし、ハカイダーも汚い手を使おうとした仲間の作戦を妨害した。そして、ともに組織から裏切り者とみなされ、非業の最期を迎えてしまう。
タイガージョーとハカイダーは、厳密には悪役とは呼べないかもしれない。むしろ、花形満や力石徹のような、好敵手と呼ばれる存在に近いだろう。どちらにしても、彼らのおかげでストーリーが広がり、より作品が面白くなったことは疑いもない。
新作映画『キカイダー REBOOT』のハカイダーにも、大いに期待したい。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている<br>【最近の私】このブログを始めて、はや4年。第50回という区切りにふさわしい内容を選び、いつ
もの3倍、ネタ帳のページを費やしました。原稿書きながら、何度も目が涙で...。BGMについて触れられなかったのは残念。
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「西の空に明けの明星が輝くころ、一つの光が宇宙へ飛んでいく。それが僕なんだよ」。モロボシ・ダンは、自分がウルトラセブンであることを明かした後、こう言ってヒロインに別れを告げた。前後編2回に渡って放送された『ウルトラセブン』最終話、「史上最大の侵略」でのワンシーンだ。
僕は以前、ウルトラマンを"満開の桜"に、ウルトラセブンを"散る桜"にたとえたことがある(このブログの第2回「満開の桜より散る桜」参照)。『ウルトラセブン』という作品には、どこか哀しさが漂う。それが、舞い散る桜の風情に似ていると感じたからだ。僕の心情に一番影響しているのは、この「史上最大の作戦」かもしれない。ざっとストーリーを説明しておこう。
地球上での度重なる戦いで、体にダメージが蓄積したセブン。モロボシ・ダンの姿でウルトラ警備隊の任務についているとき、意識が朦朧としてミスを重ね、宇宙船の地球侵入を許してしまう。夜、自室のベッドでうなされていると、"セブン上司"の姿が枕元に浮かび上がり、「これ以上変身して戦えば、2度と故郷の星へ帰れなくなる」と警告を受ける(第34回「"セブン上司"再評価の時」参照)。そんな状況で、宇宙人による地球規模の侵略が始まった。そして、仲間の一人が捕らわれてしまう。ダンは精密検査をすすめるヒロインに正体を明かし、制止を振り切って戦いへと向かった。ところが、セブンに変身したものの体が思うように動かず、何度も怪獣に叩き伏せられる。しかし、一瞬のスキをついて逆転。そのままよろめきながら立ち上がり、明け方の空に光となって消えていく。まるで、星になって宇宙へ帰っていくかのように...。
これほどドラマチックなストーリー展開の特撮番組は見たことがない。"ウルトラシリーズ最高峰と呼ばれる理由として、最終回の存在は大きい"と評されるのも、分かってもらえるだろうか。ファンの間で語り継がれるヒロインとの場面など、"凡百のラブシーンを超えた"とまで言われている。だけど僕は、この最終回が特別な点は、もっと本質的なところにあると思っている。それは、ヒーローとの"心の触れ合い"と"別れ"だ。
正体を告白されたヒロイン、アンヌ(第19回「アンヌへのラブレター」を参照)は、ダンに言う。「人間であろうと宇宙人であろうと、ダンはダンに変わりないじゃない」。それに対してダンは、「ありがとう」と答える。正体を明かした以上、これはダンとしてだけではなく、セブンとしての言葉でもあるだろう。「ダン」は本来の自分ではない。いわば人間に"変身"した仮の姿だ。それでも、仲間たちと力を合わせて戦い、一緒に笑った日々は決して嘘などではない。セブンにとって、もし「ダン」を否定されたら、自分の一部を否定されることになる。しかしアンヌは受け入れてくれた。心からの感謝を込めた「ありがとう」だったに違いない。これほど真摯なヒーローの言葉は、他にないだろう。セブンとアンヌの心と心が通い合った、特別な瞬間だった。
アンヌがダン=セブンを受け入れたのは、人類の側から見ても大きな意味を持つ。「ダンはダンに変わりない」というセリフがなければ、ダンは物語の中で、さらには僕らの心の中で、宇宙人に戻り、異世界の住人になってしまっただろう。ダンという人格が消えてしまった、と言ってもいい。だけどアンヌの言葉のおかげで、そうはならなかった。そして、ダン=セブンということは、セブン=ダンということでもある。それを象徴的に表しているのが、真実を知らされたウルトラ警備隊の隊員たちの言動だ。彼らは目の前で怪獣と戦うセブンを、それまでのように「セブン」とは呼ばず、「ダン」と呼ぶようになっていた。
やがて訪れるセブンとの別れは、ダンとの別れをも意味することになる。その分、彼らの悲しみは深い。そしてその悲しみは、ブラウン管のこちら側で見ている僕らのものでもあった。(この点は、『ウルトラマン』と比較するとわかりやすい。ウルトラマンは最終回、それまで体を借りていた地球人のハヤタと分離して、地球を去っていった。つまり僕らに別れを告げたのは、ウルトラマンという宇宙人だけだったのだ。しかも彼は人間と心の交流はおろか、ほとんどコミュニケーションを取ることもない相手だった。セブンとは、そこが違う。)
ダンが去って行った空を見上げながら、ウルトラ警備隊の隊員の1人が言う。「ダンは生きている。遠い宇宙から俺たちの地球を見守ってくれるさ。そしてまた元気な姿で帰ってくる」。そして最後、空にダンの笑顔が浮かぶ。あの笑顔にもう一度会いたい。僕はそんな想いを、ずっと心のどこかにしまい、大事に持ち続けてきた気がする。きっとそれは、いつまでも消えることはないだろう。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】今回のテーマはオレンジ色。NFLのブロンコスにとっては、不吉な色のようだ。週末のスーパーボウル、オレンジ色のユニホームで戦いに臨んで大敗。青や白のユニホームでならスーパーボウルを制したことがあるのに、なぜかオレンジ色だと4戦全敗だそうだ。
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オレンジ色の特撮ヒーローは、なぜいないのだろうか。ヒーローたちにとって縁起の悪い色なのか、単に彼らの好みに合わないのか。そんなことを疑いたくなるくらい、僕はオレンジ色のヒーローを見た記憶がない。たとえばスーパー戦隊シリーズ。赤、青、黄色、緑、ピンクなど、色の違う5人のヒーローが、数十年に渡って活躍してきたけれども、オレンジ色の戦士は一度も登場したことがない。レインボーマンは7つの姿を持ち、それぞれ色が違っていたけれど、やっぱりオレンジ色は使われていなかった。
白黒テレビの時代、国民的ヒーローとなった月光仮面は、全身白いコスチュームに身を包んでいた。白を着れば、黒スーツの悪人と区別をつけやすい。それに加えて、"モノクロ映像の中で一番目立つ色だから"という判断もあったかもしれない。
カラーテレビ時代に入ると、全身金色のマグマ大使が登場した。なぜ金色に設定されたのか、その理由は正直わからない。ただ、金色はどんな色の中でも映える色だ。企画会議で"特撮カラー作品第1号(注釈)なんだから、インパクトの強い色にしようよ"という意見が出たとしても、不思議ではない。
『マグマ大使』の13日後に始まった『ウルトラマン』は、いうまでもなく銀に赤いライン。赤という色も金色と同じく、どんな風景の中でも映える色だ。特撮ヒーローの色として、定番中の定番と言っていい。一方の銀色も、ウルトラマン以降、ミラーマンやシルバー仮面、宇宙刑事ギャバンなどに使われた。ちなみに、銀色に比べ、金色のヒーローは少ない。僕が思い出せるのは、スペクトルマンぐらいだ。ただ数年前、深夜帯に放送された『牙狼〈GARO〉』に、全身金色のヒーロー、牙狼が登場。ダークな作風と映像の中にあって、金色の輝きが印象的だった。
閑話休題。特撮ヒーローはどんどんカラフルになっていき、ゴレンジャーやレインボーマンでは、同一作品内で何色ものヒーローが登場した。ここ数年の仮面ライダーシリーズも、同じような状況だ。複数のライバルライダーの存在や、主役ライダーのモードチェンジが、何色ものライダーの登場を可能にしている。しかし、これだけカラフルになった中でも、ヒーローたちがオレンジ色に目を向けることはなかったのだ。
ところが、昨年放送された『仮面ライダーフォーゼ』が、ついにその壁を崩した。フォーゼは、ロケットと宇宙服がモチーフ。だから基本形態は白だけれど、モードチェンジによって、全身オレンジ色に変わるのだ。また、現在放送されている『仮面ライダー鎧武』の鎧武は、甲冑と果物のオレンジがモチーフで(注釈3)、目や胸、肩口に鮮やかなオレンジ色があしらわれている。
色彩心理学によれば、オレンジ色は「明るさ」や「陽気さ」といったイメージと結びつくそうだ。それを意識したのかどうかわからないけれど、番組スタッフは作風に合う色として、オレンジを選んだのかもしれない。フォーゼも鎧武も、ライダーシリーズの中では珍しくコミカルな作風だからだ。それにしても、ついに果物までヒーローのモチーフになるとは!ライダーシリーズの発想の自由さが、改めてよく分かるキャラクターだ。
モードチェンジやライバルライダーの登場で、カラーバリエーションが豊富になった最近のライダーシリーズ。どんなデザイン、カラーリングがファンに受けるかチェックするという、実験的な意図もあるのだろうか。もしかしたらフォーゼをきっかけとして、オレンジ色のヒーローが数多く登場するようになるかもしれない。
追記
ここまで3回にわたり、特撮ヒーローと色について書いてきた。特にライダーシリーズに関しては、まだまだ奥が深そうだ。たとえば、最近になって白いライダーが登場してきていることや、ほとんどのライダーにシルバーがあしらわれていること、目の色は赤のほかに緑もよく使われていることなど。何か面白い発見があれば、記事にしたいと考えている。
注釈
『マグマ大使』放送開始は1966年。全身金色のキングギドラが登場した怪獣映画、『三大怪獣 地球最大の決戦』の公開は1964年。マグマ大使の色設定が、キングギドラに影響を受けた可能性も考えられる。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】年末の紅白歌合戦で、潮騒のメモリーズの復活ステージを見逃した。僕にとって、2013年で最大の悔やまれる出来事かもしれない。
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ヒーローにいちばん似合う色が赤だとしたら、いちばん似合わない色は何だろうか?初代仮面ライダーは企画当初、マスクが緑色だった。もちろんモチーフがバッタだからなのだが、「緑色のヒーローなど論外」と考える東映側の指示で黒に近い緑に変更される。その結果、全身黒っぽい(注釈1)ヒーローの誕生となった。
黒は悪の象徴としてよく使われる。その意味では、緑よりも黒のほうがヒーローにふさわしくない色ではないだろうか。"黒=悪役"というイメージを強烈に体現しているのが、ダースベイダーだ。全身真っ黒な姿を見ただけで、「ああ、こいつはワルモノだな」と誰もが思うだろう。
日本の特撮でも、黒は存在感のある悪役や敵によく使われてきた。ウルトラマンと互角に渡り合ったメフィラス星人や、ウルトラマンを倒したゼットンは、黒を基調としている。その他、キカイダーを破壊するためだけに作られたハカイダー、ジャイアントロボのライバル、GR2なども同様だ。つい最近では、『ウルトラマンギンガ』に黒いウルトラマンとウルトラセブン(注釈2)が登場した。
色彩心理学によれば、黒が持つイメージには"死"や"恐怖"、"強さ"などがあるそうだ。その観点からすれば、黒は敵役にこそふさわしいと言える。だけど思い出してみてほしい。鞍馬天狗や快傑ゾロの衣装が、何色だったかを。古すぎて分からないという人は、バットマンでもいい。みんな黒い衣装に身を包んでいたではないか。正義のヒーローが黒を着れば、"強さ"は肯定的な意味合いに転じる。さらに黒には、"神秘的"というイメージもあるから、正体を隠して戦うヒーローたちには、まさにうってつけの色だ。仮面ライダーも黒いからといって、悪役に見えてしまうということなどまったくないのだ。
そんなライダーも、番組後半のモデルチェンジによって、マスクがメタリックなライトグリーンに変わった。腕や体の横にはシルバーの2本線が入り、グラブとシューズもシルバーのものに変更された。スマートで洗練された印象になった分、力強さや迫力はなくなった気がする。その後、『人造人間キカイダー』や『秘密戦隊ゴレンジャー』が登場し、カラフルな特撮ヒーローばかりが活躍するようになっていった。
ところがそんなの流れの中で、画期的なことがあった。ゴレンジャーに始まるスーパー戦隊シリーズの6作目、『大戦隊ゴーグルファイブ』に、ゴーグルブラックが登場したのだ。当時、黒という色を前面に押し出したヒーローは斬新だったし、何より強そうに見えた。それは、色自体が持つイメージのおかげでもあるが、ゼットンやハカイダーなどの影響もあっただろう。彼らによって僕らの中には、"黒=強い"というイメージが植え付けられていたのだ。
ゴーグルブラック登場の裏には、グリーンの戦士に人気がなく、他の色を検討していたという事情があったらしい。冒頭で紹介した、仮面ライダーが始まる前の東映の判断は、正しかったということになる(注釈3)。いずれにせよ、黒の戦士は好評なようで、現在放映されている『獣電戦隊キョウリュウジャー』でも雄姿を見ることができる。
ただ、子供たちをメインターゲットにした番組で、バットマンのように単体のヒーローを黒ずくめにすることは難しいかもしれない。なんといっても明るくて目立つ色の方が、子供たちにはアピールする。黒という色の魅力が理解できるのは、大人になってからだろう。スーパー戦隊の黒い戦士たちも、派手な色の仲間に囲まれているからこそ、カッコよく見えるのかもしれない。黒いヒーローが単体で活躍できるような、大人向けの特撮作品の登場を期待しよう。
注釈
1)仮面ライダーは"オートバイ乗り"だから、着ているのは当然、黒いレザーのつなぎなのだ。
2)正確に言うと、黒というより濃いグレー。なぜそんな中途半端な色なのか、理解に苦しむ。漆黒に赤いラインの方がずっとカッコいいと思うのだが...。残念。
3)実際には、『大戦隊ゴーグルファイブ』以降も、グリーンが登場するスーパー戦隊作品は数多い。また、『仮面ライダー』の後に始まった『仮面ライダーV3』のV3は、頭部以外は緑色を基調としていたが、昭和のライダーシリーズの中で屈指の人気を誇っていた。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】『進撃の巨人』の実写版制作が動き出すようだ。主演女優の候補には、剛力彩芽とか橋本愛の名前。そのあたりも、(そのあたりが?)非常に楽しみなんである。
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仕事でメジャーリーグの映像を見ていると、赤いユニフォームが多いなあと感じる。松井秀喜が所属したエンジェルスを始め、田口壮のカーディナルス、さらにレッズやフィリーズ。どれも白地に赤い帽子とアンダーシャツで、広島東洋カープそっくり。知らない人が見れば、その4チームはまず区別できないだろう。しかも最近では、ダルビッシュのいるレンジャーズのように、普段は青いユニフォームが、ときどき赤に変わるチームまである。
一説によれば、赤という色は強く見える上に、闘志を高める効果もあるので、西洋では"戦いの色"として使われてきた歴史があるらしい。さらには、赤いウェアを着ると運動パフォーマンスがアップする、なんていう話も聞く。
それが全て本当なら、特撮ヒーローたちにとって、赤ほどふさわしい色はないだろう。弱そうに見えたら敵になめられるし、どんな強敵が相手でも気持ちで負けるわけにはいかない。そして、たとえ数%でも自分の戦闘力が向上するのであれば、彼らはどんなことでも取り入れるべきだ。
もちろん番組制作者だって、赤という色の利用価値は無視できない。ヒーローは強く見える必要があるのはもちろん、画面の中で目立たなければいけない。赤は人の目を引く力があるから、すぐ目に入ってくるし、どんな背景であっても姿が浮き出る。それに、赤は"情熱"といったイメージも喚起するので、ヒーローの"熱さ"を表現するのにはピッタリだ。
赤いカラーリングが施されたヒーローたちを振り返ってみると、まず初代ウルトラマンは銀のボディに赤いラインが特徴的だった。以降、赤はウルトラ戦士の基本色となる。初代仮面ライダーは、目とマフラーが赤。それに続く歴代ライダーたちも、大抵どこかに赤が使われている。5色の戦士が登場するスーパー戦隊シリーズでは、必ずと言っていいほど、レッドがリーダーとして設定されている。
色彩心理学なるものによれば、赤には購買意欲をかきたてる効果もあるらしい。子供たちがおもちゃ売り場で「買ってくれ」とせがむヒーローの人形を見て、親の財布の紐も緩みがちに。こうして、キャラクターグッズの売り上げが伸び、上に挙げた3大特撮シリーズが長寿番組となる後押しをしたのであれば、話としては面白い。さらに一歩、いや十歩ぐらい踏み込めば、「全身金色のマグマ大使や銀と緑のミラーマンが主役の特撮番組がシリーズ化されなかった理由は、そのカラーリングにあり」という、かなり大胆な仮説も立てられそうだ。
ただ不思議なことに、歴代のウルトラ戦士やライダーたちを思い出しても、僕の中で赤が印象に残るヒーローがいない。その理由の一つは、全身が赤いヒーローが少ないということは言えると思う。ウルトラセブンは体のほとんどが赤だけれど、頭部は銀色だった。特別な理由がなければ、誰でもヒーローの姿を見るとき、視線は顔にいくだろう。セブン=赤という印象にはならなかったのは、銀色の頭部を中心に見ていたからだと思う。
それじゃあ、レッドバロンはどうか?レッドバロンは、1970年代に放送された『スーパーロボット レッドバロン』に登場する、頭から足先まで赤一色のロボットだ。けれど、これも赤のイメージがあまり湧いてこない。理由をあれこれ考えていた僕は、ふと気が付いた。赤いヒーローを考える上で、僕は無意識に"赤い彗星"と比較していたのだ。"赤い彗星"とはもちろん、アニメ『機動戦士ガンダム』に登場するシャア少佐のことで、厳密に言えば敵役でヒーローではない。ただ、彼が操縦する全身赤のモビルスーツ(注釈)は、抜群の戦闘力で向かうところ敵なし。主人公の属する連邦軍には、鬼神のように怖れられる存在だった。
赤は強さを表現する。強さは戦ってこそよくわかる。だからこそ、シャアのような敵役が赤を使ったほうが、より鮮烈なイメージとなるのだろう。ここで今回の結論。ヒーローは赤が一番似合うが、赤が一番似合うのは敵役だ。皆さんは、どう考えるだろうか。
注釈
彼専用の機種はファンの間で人気だが、この秋、トヨタ自動車は『起動戦士ガンダム』とコラボレーションし、真っ赤な「シャア専用オーリス」の販売を開始。この商品化には、ファンの後押しもあったようだ。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】仕事がらみで、"ライブ&朝食付き皇居ランニング"に参加した。初めての皇居ランだったが、多摩川の方がずっといいと思った。ちなみに、日比谷茶廊でのライブはステキだった。
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先日、数人の仕事仲間が、前回このブログで取り上げた映画『パシフィックリム』について話していた。おおむね肯定的な彼らの感想を聞きながら、「わかっとらんねー、キミたち」と思いつつも、作業中だった僕はそのまま聞き流した。しかし、このブログでは黙っているわけにはいかない。そういう人たちにわかってもらうのが、『明けの明星が輝く空に』の使命なのだから。
ということで今回も、『パシフィックリム』について書こうと思う。この映画は前回触れたように、日本の特撮へのオマージュである。だけど、ゴジラやウルトラマンで育った僕からすると、重要な部分が欠けているように思う。『パシフィックリム』に足りないのは、ズバリ、怪獣への愛だ。愛が足りないから、怪獣が魅力的に描けていない。では、怪獣の魅力とは何なのか?それは、その大きさと恐ろしさがもたらす迫力だ。
実は『パシフィックリム』の怪獣たちは、かなり巨大な生物として設定されている。彼らが襲った市街地の建物と比較すれば、それは一目瞭然だ。怪獣の全身がスクリーンに入りきらないようにするなど、大きさを強調する演出も見られた。それなのに、僕には大きさを感じることはできなかった。
今では主流になった、CG製のモンスターたち。彼らは、スクリーンの中で素早く動き回ってみせる。動きに制約がなくなったのはいいことだけれど、大きさを表現するには逆効果だろう。大きいものは、ゆっくり動いて見えるものだからだ。そういった意味で、CGモンスターと対照的な例として、『ゴーストバスターズ』の巨大マシュマロマンが挙げられる。夜のニューヨークに、突如として現れるあのシーン。「見た目はかわいいのに、あんなデカイものが歩いてきたら怖いよなー」と思わせるような、なんとも言えない迫力があった。
かつて日本の特撮作品では、ハイスピード撮影を使用していた。映像をスローモーションにして、暴れる怪獣や崩れ落ちるビル、港に押し寄せる大波などに、巨大さや重量感を出すためだ。ゴジラがビルを破壊するシーンも、ウルトラマンが怪獣を投げ飛ばすシーンも、スローモーションだからこそ迫力が出る。逆に、もし撮影現場のゴジラを見たら、動きがせわしなくて、「ああ、怪獣王の威厳よ、どこへ?」と嘆きたくなるだろう。撮影現場のゴジラは、『鶴の恩返し』の鶴と同じく、働いている姿を決して見てはいけないのだ。
大きさと迫力を表現するには、動きを遅くすること以外に、人の目線から描くことも重要だと思う。『パシフィックリム』では、ロボットに乗り込んだ人間の目線で怪獣を見ることが多かったが、それでは臨場感に乏しい(注釈)。もっと生身の人間が、怪獣と対峙しなければ。たとえばガメラと並ぶ大映の特撮映画『大魔神』の大魔神は、身長がせいぜい2階建ての家ぐらいしかない。それでも、足音を響かせながら近づいてくる姿は、砦に立てこもった悪人たちの側から見ると、"凄み"と言えるほどの迫力に満ちている。秀逸なのは、顔と同じ高さにある櫓の前に差し掛かった場面。櫓の上には、逃げ遅れた男たち。ふいに立ち止まった大魔神が、ゆっくりと顔をそちらに向ける。このシーンで僕は、まるで自分が大魔神に見つかったような錯覚に陥って、背筋がゾクゾクしてしまう。
『パシフィックリム』には、怪獣の迫力を演出する上で、惜しいなと思った箇所がある。市街地を守る巨大な壁を、怪獣が突破するシーンだ。残念なことに、壁は実にあっけなく壊されてしまう。ある程度攻撃に耐えてこそスリルが味わえるし、強固なところを見せてからのほうが、それを破壊する怪獣の恐ろしさも強調できるだろう(僕はこれを"城壁効果"と呼ぶことにした)。その点、このブログの第44回で触れた漫画『進撃の巨人』は、町を守る城壁の存在が生きている。城壁を破って町中に人食い巨人が侵入してきたときの戦慄。城壁のおかげで安全だったはずの空間が侵されるわけだから、恐怖感は倍増する。SF映画の古典『禁断の惑星』には、鋼鉄の壁が怪獣の力でどんどん変形していく場面がある。アフリカ象ぐらいの大きさしかないミニ怪獣だったが、その10倍はありそうな『パシフィックリム』の怪獣たちより、怖さという点ではずっと上だった。
冒頭に触れた仕事仲間たちが、もし今回のブログ記事を読んだら、果たしてどういう感想を持つだろうか。チャンスがあれば、読んでもらうよう言ってみることにしよう。
注釈
実は『パシフィックリム』にも、芦田愛菜ちゃん演じる少女が怪獣に追われ、物陰に隠れるシーンがあった。恐怖を演出するにはもってこいの状況だけど、なぜか『大魔神』ほどのスリルは感じなかった。「もしかしたら愛菜ちゃんだけ見ていて、映像全体を見ていなかったせいじゃいないの?」と突っ込まれたら、反論はできないかもしれない...。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】ウルトラセブン展限定ポスターが届きました。そこには2/20の文字が。惜しい、実に惜しい。1/20だったらなあ。でもイチバン羨ましいのは、7/20をゲットした人です。
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この夏に公開された映画『パシフィックリム』には、クライマックスと言えるようなものがない。巨大ロボットがKAIJU(=怪獣)と戦うこの映画は、難しい理屈なしに楽しめるというので、ネット上のレビューでは好評だ。だけど、最初から最後まで、「ドッカーン、ギャオー、バリバリバリ」が続いてメリハリがない。どこで盛り上がったらいいのか、サッパリわからない映画だった。
監督は、日本のアニメや特撮を見て育ったギレルモ・デル・トロ。来日した際には、お台場のガンダム像に両手を合わせて拝んだという人物だ。そんな監督本人が「日本へのラブレター」と呼ぶ『パシフィックリム』。雑誌には、「日本のアニメ、特撮へのオマージュ」と紹介される。メリハリ云々はさておき、日本の特撮スピリットは受け継がれていたのだろうか。
『パシフィックリム』の怪獣たちは、異空間とつながる海溝から現れ、世界各地の都市に上陸する。中には鯨やワニのような姿の水棲タイプもいるが、陸上タイプも少なくない。つまり、彼らが海の中からやって来る必然性はないのだ。宇宙人に送り込まれてくる設定なのだから、瞬間移動装置でも使っていきなり街中に出てきてもいいはずなのに・・・。
海から出現する日本の特撮怪獣はいろいろいる。第44回で紹介した『サンダとガイラ』のガイラは、海から現れて人々を襲った。モスラの幼虫も、南の島から海を泳いで渡ってくる。そして忘れてはいけないのがゴジラだ。ゴジラは繰り返し海から現れ、最後は東京を焼き払って火の海にした。
『ゴジラ』は、デル・トロ監督も当然見ただろう(注釈1)。海に囲まれた日本において、ゴジラに代表される出現経路は、民俗学的観点からすると興味深いことらしい。というのも、日本の民話や伝承には、海の彼方から来る異形の神々が存在するからだ。例としては、沖縄のアカマタとクロマタが挙げられる。恥ずかしながら僕は知らなかったのだが、東北のナマハゲも海からやって来るらしい。
アメリカ映画でもっとも有名なモンスター、キングコングも、南の島から海を越えてアメリカ本土へとやって来る。ただしそれは、人間に捕らえられ、船で移送されたにすぎない。『ロストワールド』のティラノサウルスも、その点は同じだった。やっぱり、自力で泳いで、海からある日突然出現する怪物と、ただ運ばれてくる怪物とでは怖さが全然違う。民俗学的視点はともかく、デル・トロ監督も海からやって来るゴジラに直感的に不気味さを感じ、自分の作品で再現しようとしたのかもしれない。
ただし特撮ファンとして、とくにウルトラシリーズのファンとしては、大いに不満が残る点がある。それは海面が光らないことだ。たとえば『ウルトラマン』で怪獣が海から出現するとき、海面がピカッピカッと光る。怪獣が光を発しているわけではない。海中で爆発が起きているわけでもない。要するに、設定としては何もない。海面が光るのは、純粋に演出上の効果のためだ。
リアリズムからすれば、これほどナンセンスな描写もないだろう。ただ、光る海面にはなぜか説得力があったし、当時の僕らはそれを自然に受け入れていた。大人になったいまも、「あれは科学的に説明がつかない」などと、無粋な突っ込みを入れる気は起きない。ファンのひいき目というのもあることは否定しない。でも、きっと『ウルトラマン』の世界では、自然な現象だったのだ。怪獣というこの世のものではない存在が出現するとき、この世のものではない現象が起こる。少なくとも、そう感じさせる演出だったのだ(注釈2)。
外国の文化を学ぶことで日本の文化を再発見することがあるが、アメリカのモンスターと日本の怪獣の関係にも同じことが言えるかもしれない。あまり面白そうだと思わなかった『パシフィックリム』も、実際見てみれば興味深い発見があった。もっといろいろ研究を進めれば、比較文化学ならぬ比較怪獣学なんて学問の成立もあるかも?学会設立の折りには、ぜひデル・トロ監督にも参加してもらいたい。
★注釈★
1)デル・トロ監督は、『パシフィックリム』を本田猪四郎とハリーハウゼンに捧ぐとしている。本田猪四郎は『ゴジラ』の監督である。ちなみにハリーハウゼンは、ストップアニメーションで数々のモンスターをスクリーン上に現出させたことで有名。
2) 当ブログ『明けの明星が輝く空に』の第23回、「存在しないはずの音」で触れた効果音の数々も、これと共通するものがある。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】日本橋三越であったウルトラセブン展で、展示会限定ポスターを注文しました。ファンにはたまらない絵柄です。僕が死んだら、棺おけに入れてもらいたいです。
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漫画『進撃の巨人』がアニメ化され、人気を呼んでいる。そんな新聞記事を目にして、さっそく漫画を読んでみた。『進撃の巨人』は、城壁に囲まれた中世ヨーロッパ風の町に暮らす人々と、彼らを襲って捕食する巨人たちとの戦いを描いた物語だ。作品がヒットした理由はいくつかあるだろうけれど、僕が注目したいのは、"人が食べられる恐怖"が描かれていることだった。
"食べられる"ことに対する恐怖は、生き物にとって根源的なものだろう。生命の発生と同時に、弱肉強食の原理は始まった。人類のDNAにも、その恐怖はきっと刻み込まれているにちがいない。これは僕の勝手な想像だけれど、熊に襲われて食べられることと、銃で撃たれること、どちらがより怖いかと聞かれたら、ほとんどの人は前者だと答えるんじゃないだろうか。
人間の心の奥底にある、食べられることに対する恐怖心。僕がそんなことを意識したのは、映画『ジュラシックパーク』を観たときだった。肉食恐竜の親玉とも言うべきティラノサウルスが、トイレに隠れていた男を頭からガブリとやるシーン。決して凄惨な作りの映像ではなく、むしろユーモラスな雰囲気さえ漂う場面だったけれど、僕は体の芯のほうで寒気がした。『ジュラシックパーク』の監督は、スティーブン・スピルバーグだ。そういえば彼は、『ジョーズ』でも食べられることの恐怖を描いていた。物語の終盤でクイント船長が食われるシーンは、いま思い出してもゾッとする。僕の記憶違いでなければ、あの場面は確かBGMがまったく流れていない。ただ物がぶつかる音や、船長の声がするだけ。それが生々しさを強調していたように思う。
日本の特撮作品の場合、怪獣が人を食べる場面はあまり記憶にない。映画でもテレビ番組でも、子どもたちがターゲットの作品が多いのだから、それは当然のことだろう。人が食べられるなどという場面は、子どもたちにとって怖すぎる。へたをすれば、トラウマを残してしまうもしれない。
とはいえ、人食い怪獣がまったくいないわけでもはない。たとえば昭和のガメラシリーズ、『ガメラ対ギャオス』のギャオス。山中での初登場シーンで男を1人飲み込んでしまうし、その後都会を襲ったときには、数人の男女を一度に食べてしまった。ただし『ジュラシックパーク』などとは違って、人が食べられるその瞬間は見せていない。人とギャオスの顔が合成されたカットの次は、ただ極端なアップで、パクパクと動いているギャオスの口元を見せるだけ。牙に血が付いていたりといった細かい演出もない。これではさすがに映像を省きすぎで、当時の子どもたちには何が起こったか理解できなかったんじゃないだろうか。実際、僕自身、"ギャオスは人食い怪獣だ"という印象がない。
反対に、人が食べられる場面が強い印象を残す特撮作品もある。東宝映画『フランケンシュタインの怪獣 サンダとガイラ』だ。サンダとガイラは、怪獣サイズにまで巨大化した人造人間。ガイラの方は、なぜか人肉が好きらしい。漁船を襲い、泳いで逃げようとする猟師たちを追ってくるシーンがあるのだが、その姿は鬼気迫るものがあって背筋が冷たくなる。その後ガイラは羽田空港に現れ、ビルの窓から手を突っ込んで女性を鷲づかみにし、頭の方からかじり付く。口をムシャムシャさせた後、何かをペッと吐き出すあたり、妙にリアリティがあって怖い。そのアイデアを思いついたのは監督か、それともスーツアクターか。どちらにしても、あのワンアクションがあるかないかで、怖さの度合いはかなり違ってくるだろう。
『進撃の巨人』は、実写で映画化される話が出ているそうだ。巨人が人を食べるシーンは、どんな映像になるのか。非常に興味を引かれるところだけれども、僕個人的な好みを言わせてもらえれば、スプラッター調にはしてほしくない。最近ありがちな、CGの使いすぎでごちゃごちゃした映像もカンベンだ。どちらにしても、映画化の実現をぜひ期待したい。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】巨大ロボットが怪獣を退治するハリウッド映画が公開される。怪獣はCMで見る限りでは面白みのないデザイン。いかに初期のウルトラ怪獣が、独創性に富んでいたかが分かる。
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子どものころ読んでいた漫画に『750ライダー』がある。ちょっとハードな学園ものだったけれど、いつのまにかラブコメに路線変更。登場人物たちも能天気な顔に変わってしまい、ガッカリした記憶がある。
特撮モノでも、顔が変わるのは珍しくない。たとえば有名なのがウルトラマン。実はウルトラマンは撮影の使用順に、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプと呼ばれる3種類のマスクが存在する。Aタイプは、つり目がちな印象で、口の周りにしわが寄っている。このしわは、口が開閉式になっていたためで、デザイン的に意図されたものではない。また、他の部位も材質の関係上微妙にデコボコしていた。Bタイプはそのあたりが改善され、つるんとした卵のような美肌になった。Aタイプと同じ型から製作されたので、顔の形自体は変わらないはずだけれど、マスク表面の質感のせいか、ずっと端正な顔立ちになったように感じる。そして最後のCタイプだが、これはBタイプとよく似ている。ちょっと見ただけでは区別できない。あらためて画像を並べてみると、口幅が少し広がり、目と口の距離が少し狭まって見える。また顔全体がやや丸みを増したようで、細面だったAタイプに比べると、優しい感じがするウルトラマンだ。
日本特撮界を代表する怪獣も、顔が変化している。ガメラの顔は昭和シリーズでは明確な変化はないが、平成三部作では大きく異なる。まず第1作目『ガメラ 大怪獣空中決戦』では目がくりっと大きく、頭部も丸みを帯びていて、怪獣とは思えないほど愛嬌があった。そのままキャラクター商品にしてもいいぐらいだ。それが第2作『ガメラ2 レギオン襲来』になるとシャープな顔立ちとなり、さらに第3作『ガメラ3 邪神覚醒』では凶悪な面構えに。一番の特徴は目だ。小さくとも鋭い光を放つ目。"アブナイ奴"といった雰囲気さえ漂わせている。頭の真ん中や目の上に並ぶギザギザとあいまって、実に好戦的な印象だ。ガメラは人類の味方ではあるけれど、あんな巨大な怪獣が街中で戦えば、どうしても物的・人的被害が出る。要するに、その点においてはガメラも十分人間の脅威だ。『ガメラ3~』はそこの部分をきっちり描いているが、ガメラもそれにふさわしいビジュアルを与えられたということなのだろう。
一方ゴジラは、昭和シリーズのころから、いろいろな顔が存在した。3作目『キングコング対ゴジラ』の"キンゴジ"や、4作目『モスラ対ゴジラ』の"モスゴジ" は、ファンの間で人気が高い。前者は目から鼻先までの距離が長く、横顔がイケメンだ。後者は眉の部分や頬が厚ぼったく、顔を腫らしたボクサーのような印象。それだけに、得もいえぬ凄みを漂わせている。
しかし昭和シリーズも後半になると、ゴジラは顔全体が丸くなり目も大きくなって、愛らしささえ感じさせるものに変わった。たとえて言うなら、シェパードやブルドッグから、ポメラニアンに変わったというぐらいの変化だ。それには理由がある。当時ゴジラは、当初のような人類の脅威ではなく、地球を守ってくれる正義のヒーローに変わっていたのだ。またゴジラ映画は、親子で楽しめるファミリー路線に舵を切っていた。この日本の怪獣王には、恐さよりも親しみやすさが求められたのだろう。
それが9年のブランクを経て、シリーズ第16作『ゴジラ』で再び映画館に帰ってきたときには、グッと相手を睨みつける悪役顔になっていた。再び人類の脅威として描かれることになったゴジラは、最終作である第28作『ゴジラ FINAL WARS』まで、一貫して睨みを利かせた顔だ。第26作の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』にいたっては、凶暴性を強調するため、瞳のない白目のゴジラも登場している。
異なった顔のゴジラが多数存在するのは、それだけシリーズが長いにほかならない。シリーズが長いということはつまり、人気が続いたということでもある。第28作をもってゴジラシリーズは終了とされているが、きっといつかスクリーンに帰ってくるだろう。そのとき日本が誇る怪獣王は、どんな顔になっているのだろうか。楽しみに待つことにしよう。