第25回:「星に願いを!」
2012年03月09日
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。【最近の私】私が今はまっているのが、「麹」。この旨さは化学調味料ではとうてい追いつかない。麹を発酵させることを「醸す」という。外国語ではなかなか表現が難しい言葉だ。「麹」「醸す」、ともに日本の文化の宝だと思う。
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アパートのマネージャー、ファーンズワース夫妻の妻オナーはすらりと背が高く、いつも穏やかな笑顔を絶やさない、優しい素敵な女性だった。私に長男が生まれると、買い物に行く時などよくベビーシッターをしてくれ、とても可愛がってくれた。ある日彼女は、その長男を空港で働いている夫のビルや他のスタッフに見せたいと、車に乗せて出かけた。ところが、オナーは空港に到着した後、発作を起こし、気を失ってしまった。幸いビルがすぐ側にいたので大事には至らず、帰りはビルが運転をして、その日は皆、無事アパートに戻ってきた。
当時オナーは度々ひどい頭痛に悩まされ、時には意識を失うことがあった。いつもブレスレットをしていて、そこには倒れた時に周囲の人が分かるように「私は"てんかん"の発作を起こすことがあります」と刻まれていた。しかし、その頭痛は徐々に我慢できないほど激しくなり、ホノルルのクイーンズ・メディカルセンターで精密検査をしたところ、脳腫瘍と判明。それもかなり進行しているという。彼女がたびたび意識を失う理由はてんかんではなかったのだ。緊急手術になり開頭したが、手の施しようがなくそのまま塞いだ。でも夫のビルはあきらめず、オナーを連れて週に1度、ヒロからサンフランシスコへ化学療法を受けに通った。この治療で一命はとりとめたが、強力な放射線治療のため脳の正常な細胞もダメージを受け、たくさんの大事な記憶までもが消されてしまった。
オナーがホノルルで手術をした時、すでにヒロからホノルルへ移っていた私たちは、クイーンズ・メディカルセンターにお見舞いに行った。その時私は、紐を引くと『星に願いを』を奏でるオルゴールを彼女に贈った。
しばらくして私の夫はホノルルからシアトルへと転勤になり、4年後には日本に戻ることになった。帰国する際、途中で懐かしいハワイへ立ち寄った。ヨコヤマさん宅に滞在しながら、どうしてもオナーの様子が知りたくて、クリスマスカードに記された住所を訪れてみた。夫妻はすでにアパートのマネージャーをやめ、美しい花に囲まれた静かな一軒家に住み、オナーは庭の花の手入れをしながら穏やかに暮らしていた。会って話をしたが、私の顔を覚えていなかった。でもその時、部屋の奥からあのオルゴールを出してきて「これは大切な日本人の友達からのプレゼントなの」と言ってその紐を引いた。私が彼女の回復を心から願って選んだあの曲、『星に願いを』のオルゴールの音が流れてきた。その音色と共に、彼女とのさまざまな思い出がどっと心に溢れた。
まだヨコヤマさん一家と知り合う前、私の初めての海外生活の不安や寂しさを癒してくれたのがオナーだった。毎日のようにあの優しい笑顔で近づいてきて、「ハーイ、アツコ」と話しかけてくれた。それから、最初のうちは食器洗いの洗剤、お風呂掃除の洗剤、床を拭く洗剤、どれもみな同じに見えた私を、スーパーに連れて行って、1つ1つ説明をしてくれたのも彼女だ。...次から次へと想い出が私の頭をよぎる。
『私の顔は忘れてしまったかもしれない。でも彼女の心の中には、大切な友達としての私の記憶はしっかり残していてくれた』。ファーンズワース家を後にした時、私はこらえきれず車の中で思い切り泣いた。
オナーはクリスマスカードの最後に、必ずスマイルマークを描く人だった。ニコッと笑うそのマークは、まさに彼女の笑顔だった。あれからもう何年たっただろう。今では音信が途絶えてしまい、彼女の様子を知る術もない。いや途絶えたというよりむしろ、その後のことを知るのが怖くて、あえて私から音信を絶ったのかもしれない。