やさしいHAWAI’ I

Chewing over TOP » やさしいHAWAI’ I » 「ハワイでの日常」一覧

第39回:夢のサマーセッション② 最初の難関
2013年06月07日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】人生には様々な節目がある。その節目を正確に認識し、適切な判断をして行動に移すということは、とても難しいものだ。自分の予測と異なる方向に向かわざるを得ないこともある。しかし常に新しい展開への期待を持ち、夢を持ち続けたいものだ。
-----------------------------------------------------------------------------------------
ハワイ大学のサマーセッション"ハワイ・オハナ"で、授業の初日に学んだことは、先生であるクム・アーネラが出席を取るときの返事の仕方だ。自分の名前を呼ばれたら「eo (エオ)」と答える。これはハワイ語で「Yes, I'm here(はい、ここにいます)」という意味だ。ハワイの文化を学ぶクラスである以上、授業の中にハワイ語が出てくるのは当然のことだった。

39-image001.jpgしかし、独特のルールを持つハワイ語を理解し、操るのは至難の業。そんな中で遭遇した最初の難関が、ハワイ語で祈りを詠唱するチャントの暗記だった。ハワイでは、ものを学ぶときや神聖な場所に立ち入る場合、神々に対しその許しを請い、敬意を払わなくてはならない。たとえばフラダンスを学ぶときも、まず生徒たちはフラの神に祈りをささげ、厳粛な気持ちでフラを踊り始める。




〔毎年6月、マウナケア国立公園で開催される、マウナケア カルチュアル・フェスティバルで見た、フラカヒコ(古典フラ)。踊っているのは古典フラの最高峰とされるグループ〕

そして私たちも、授業を受けるにあたり、「ハワイ・オハナというクラスを受けるためにハワイ大学に入ってもいいですか」と神に許しを請うことを求められる。ハワイ語で書かれたチャントのプリントが渡されるのだが、そこにはまるで"おまじない"のようなアルファベットの羅列が示されていた。

A uka ho'I Waiakea I ka Uluau
Aheahe anaka hone a ka wai ua
Ua hiki mai ho'I me ka mana'o e
He wai lani ko kulanihako'I e
He aha no'I ko neia honua la e
He ui 'ano'ai e welana aku nei e

このチャントの表現はとても比喩的で、まずワイアケアの山肌に霧のように静かに降りそそぐ雨の美しさをたたえることから始まる。意味を要約すると、『美しく豊かな自然に囲まれながら、大学で学ぶ機会をどうぞお許しください』と神に許可を願うチャントだ。

ハワイ語の母音は日本語と同じ、「AEIOU」の5音、子音は「HKLNMW」で、母音の5文字を合わせて合計35字で構成されている。母音の発音は、ほぼ日本語の「あえいおう」と同じだが、そのほかに「'」が付くと、その前の音を詰まらせる(オキナ)。また、ここには表記できていないが、母音の上に横棒があるものは、その母音をおよそ2倍の長さに延ばして発音する(カハコ)。

それを踏まえたうえで、上記のチャントを1週間で暗記することが、最初に与えられた最大の難関だった。私は毎朝起きると、まずこの暗記に取り掛かった。チャントは神々に聞こえるように、お腹からしっかりと息を吐き出して明確な発音をしなくてはならない。アパートの隣近所の住人は、毎朝私のチャントの練習をなんと思って聞いていたのだろうか。

39-image003.jpg






〔毎朝サーフィンをしてから授業に出席していたクラスメート。彼女のチャントは心に響く本当に素晴らしいものだった。〕

プリントを渡されて1週間後、このチャントのテストが行われた。ハワイ語なのだから、もちろんハワイアンの生徒は絶対的に有利。あの毎朝サーフィンをしてくるハワイアンの女性は、それは見事な、美しいチャントを唱えていた。しかし私も負けるわけにはいかない。1週間毎朝、近所迷惑も顧みず、大きな声で練習を続けてきたのだ。わざわざ日本からこのコースを受講するために来たわけだから、クラスメートたちとはそもそも心構えが違う。そして迎えた本番では、日々努力してきた成果をすべて出し尽くした。その結果、チャントは見事にAを獲得! こうして私は無事"ハワイ・オハナ"を受けられることになった。

第33回:青い小瓶
2012年11月29日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】2人目の孫(女の子)の出産を前に、なんとなく落ち着かない日々を送っている。最初の孫は男の子でつい先日4歳になった。先日我が家に遊びに来て、こんなことがあった。 「僕、もう赤ちゃんやめたの」と言う一方で、パパとママから少し離れたところで「やっぱりまだ甘えたい」と私に告白したのだ。頭のどこかで妹の出産を理解しようとしている心の葛藤を見た気がして、切なくなった。
-----------------------------------------------------------------------------------------
先日、テレビで久しぶりに『秘密のケンミンSHOW』を見た。ご存知だと思うが、これは日本各県の様々な名産品、県民性などを取り上げ、面白おかしく紹介する番組だが、その特徴を良く捕らえてなかなか興味深い。今回は大阪の女性が「神戸の人みたいね」と言われるととても喜ぶ、ということを紹介していた。神戸の人は洗練されて、スマートなイメージがあり、大阪の女性の憧れだそうだ。

それを見ているうちに、思い出したことがあった。

10年ほど前ハワイ大学の夏季セッションに参加するため、ヒロで2ヵ月一人で生活したことがあった。私は暇にまかせて、ナップサックを背負いアパートからヒロのダウンタウンまで、毎日のように歩いた。特に水曜日と土曜日は、ダウンタウンで開かれるファーマーズマーケットで、大好きなパパイヤを買うのが楽しみだった。4つで1ドルのパパイヤを1山欲しいと言うと、"オマケだよ"と言って2山くれる。ナップサックはパパイヤでいっぱいになり、帰り道が大変だった。

車だとつい通り過ぎてしまうところも、歩くと周囲の景色は違って見え、あちこち頭を突っ込みたくなるものだ。ある日、前を通るたびに気になっていた小さなアンティークの店に立ち寄ってみた。中には歴史を背負った興味深い品物がずらりと並び、同じように歴史を背負っているような日系のおばあちゃんが一人店番をしていた。私が日本からやって来たことが分かると、うれしそうに日本語で話しかけてきた。日本ではどこに住んでいるか、ハワイは初めてかなどといろいろと尋ねられていたところに、もう1人の日系のおばあちゃんが店に入ってきた。店主の友人らしい。店主はそれまでの話から、私が日本からやってきたこと、昔ヒロに住んでいたことなどをその友人に説明した。するとその店主の友人は、今度は私に親しげに話しかけてきた。

33-image001.jpg「私はね、ヒロ出身じゃあないの。ホノルルのギョール(girlのこと。かつてアメリカ人の発音がこう聞こえたのだろう。今でも日系二世は女の子のことをこのように言う)だったのよ、こんな田舎のヒロの出じゃなくて、ホノルルのシティギョールだったのよ・・・」彼女は何度もそう言った。少々勝ち気そうな表情には、ホノルル出身であることに確固たる誇りを持っていることがはっきりと感じられた。

私はその言葉を聞いて、衝撃を受けた。同じ日系人の間でも、"ホノルル出身者は都会の出"、という感覚があるということをその時初めて知ったのだ。そういえば、夫の転勤で最初にハワイにやって来た時、ホノルルに次ぐ第2の都市と聞いていたヒロを、私も人口4万人の田舎町だと思った。でも"田舎町の何が悪いのだ"と今は思う。ヒロは私の第二の故郷。世界中探してもこんなに心にしみる優しさを持った町はない。私はかつてのシティギョールにそう言いたかった。

それでも、話が弾んで何か買わずにいられなくなり、店の中を物色したところ、とても興味深いものを見つけた。高さ8センチ、幅3センチほどの青いガラスの小瓶だ。「Japanese Medicine $18.00 」とラベルが張ってある。びんのガラスの表面には「志らが赤毛染 ナイス」という文字が浮き出ている。これにはかつての日系人が使った毛染め薬が入っていたのだ。意外だったのは、それが「赤毛染め」となっていたことだった。彼女たちは白髪を黒ではなく赤毛に染めたのだろうか。白人のような髪の色にしたかったのだろうか・・・。目の前にいるホノルル出身のシティギョールを見つめながら、彼女の遠い昔の日々に思いを馳せた。

第32回:GOKUROSAMA
2012年11月09日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】久しぶりに風邪をひいてしまった。毎日の気温差が大きいこの頃、気を付けないとと思っていたのだが・・・。体調を崩して改めて、健康のありがたさを痛感。みなさんもお気を付けください。
-----------------------------------------------------------------------------------------
まだヨコヤマさんが元気だった頃、私は土曜日の朝にはよくヨコヤマさんと一緒にヒロのダウンタウンへでかけ、日系人が経営する小さなコーヒーショップで朝食を食べていた。ヨコヤマさんのお気に入りは"ポチギーソーセージ"とスクランブルエッグにパンケーキ。ポチギ―ソーセージはボルトガルのちょっとスパイシーなソーセージで、初めて口にした時から私の大のお気に入りになった。コーヒーは何杯飲んでも値段は同じ。周囲には日系二世、三世の家族連れが大勢いて、たまり場のようになっていた。顔馴染みに会うとたちまち話に花が咲く。私たちがヒロで生活をした1970年代は、40代前後の日系二世が社会の中心になって活躍している、活気溢れる時代だった。「パホアにいる○○さんのアンセリウムの商売がうまくいっていて、パパイヤも輸出用に空港に入れているそうだ」「今度○○さんの家で銀婚式があって、カルアピッグ(豚の丸焼き)をするそうだ」などと、景気の良い話が次から次へと出てくる、古き良き時代だった。豆腐屋に生まれたジョージ・アリヨシが日系人で初のハワイ州知事になったのもこのころ。彼の州知事就任は、日系二世の力がハワイの社会に認められた証だった。

時が過ぎれば、様々な変化が起きる。5年ほど前に訪れた時は、二世のたまり場はダウンタウンのコーヒーショップからバーガーキングに変わっていた。80歳をとうに過ぎた日系二世のおじいさんが、頭にヘッドフォーンをつけて音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいる。時代はこんなところでも大きく変わっていた。

32-001.jpg






〔バーガーキングで見かけた頭にヘッドフォーンをつけた日系の年配のおじいさん〕


その頃は、シマダさんも朝食はバーガーキングがお気に入りだった。特に水曜日にはパホアに住んでいる友人のクボ夫妻が、ヒロのバーガーキングにやってくる。クボ夫妻というのは、前回ラバツリーパーク州立公園の帰りに、海苔巻ベントウを食べるために寄らせていただいた家のご夫婦だ。パホアとヒロは車でおよそ30分。すでに90歳近い高齢になった日系二世にとって、この距離を運転するのはかなりの勇気がいる。シマダさんはもう長距離の運転はできなくなっていた。しかし毎週水曜日はクボ夫妻のご主人が、目が悪いにもかかわらず、ゆっくりと車を運転してヒロの町までやって来る。これが週に1回の楽しみなのだ。私たちがシマダさんを車に乗せてバーガーキングに到着すると、すでに店内は多くの日系二世で賑わっていた。ほとんどの人が、コーヒーだけを注文してソファーに座り、話し込んでいる。その内容がつい耳に入る。「○○さんが病気で入院したそうだ・・・」「○○さんが先月亡くなってね・・・」特徴のある英語と日本語が混ざったピジンイングリッシュで語られる話のほとんどが日系人仲間のそんな動向だった。大半の日系二世はすでに高齢のため、こういう哀しい話題が多かった。

だが日系一世、二世の築いてきたハワイの社会は、三世、四世の若い世代によってしっかり受け継がれている。今のハワイ日系人社会があるのは、移民時代に始まる一世、二世の大変な苦労のおかげということを心に刻んでいる若い世代は、本当に年配者を大切にする。

ハワイでは2007年、日本では2011年にハワイ日系四世の写真家Brian Y.Satoさんが、9年にわたって日系二世を撮り続けた写真展を開いた。モノクロで撮られた写真を展示した、このイベントのタイトルは「GOKUROSAMA」。年配者に対する若い世代の感謝の気持ちがタイトルになった。できることならこの写真集の中に、ヨコヤマさんの姿も入れたかった。「ヨコヤマさん、ご苦労様でした」

32-002.jpg   32-003.png 
〔バーガーキングに集う       Brian Sato氏の写真展の
クボ夫妻とシマダさん〕      日系二世写真集「GOKUROSAMA」

(久保さんのご主人は、昨年亡くなりました。心からご冥福を祈ります。)

第30回:ハワイのピジン・イングリッシュ
2012年09月07日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】ついにデスクトップが壊れた!! 最近どうも立ち上がりにあまりに時間がかかりイライラしていたのだが、とうとうその時が来てしまった。使い慣れたPCを廃棄処分にするのは、なんだか片腕をもがれるようで心が痛む。
-----------------------------------------------------------------------------------------
みなさんは、"ピジン・イングリッシュ"という言葉を聞いたことがあるだろうか?

ハワイで生活をしていた当時、親しくしていた日系二世のヨコヤマさんから最初にこの言葉を聞いた時、私は"ピジン(pidgin)"を"ピジョン(pigeon鳩)"の意味で言っているのだろうと誤解していた。"ハワイの日系人の少しブロークンな英語を、鳩の鳴き声のような英語という表現をしている"と思ったのだ。

『ハワイ研究への招待』(関西学院大学出版会)によると、『ピジン"とは、"共通の言語を持たない人々の間でコミュニケーションの手段として用いられる、簡略化された補助言語』と定義されている。かつて移民としてハワイへやって来た日本人は、英語はもちろん、ハワイ語も当然分からなかった。しかし生活を続けていくためには、白人、ハワイの先住民、そしてさまざまな国から来た移民たちとの間で、お互いの意思疎通を図ることが必要となってくる。そのためのツールとして、複数の言語を取り入れた独特の言葉が自然に作られていった。この言葉を"ピジン語"というわけだ。ハワイの日系人の場合は、英語、日本語の出身地の方言、そしてハワイ語などが混在しており、現在も使われ続けている。

ヨコヤマさんも普段はピジン語を使い、「ハオレ(白人)」、「モエモエ(眠る)」、「パウ(終わり)、「プカ(穴)」、「オノ(美味しい)」、「マケ(死ぬ)」、などのハワイ語に、「イチバン」「ベントウ」「スコシ」「カライ」「イタイ」「ジョウトウ」などの日本語を混ぜ、最後は出身地・広島の方言「じゃけんのう」で終わる話し方だった。

例えば、「あとでダウンタウンに行って朝食を食べよう。あそこのポチギーソーセージ(スパイシーなポルトガルのソーセージ)は、すごく美味しいんだ。一番だよ」は、「Bumbye we go downtown and have breakfast. That Portuguese sausage, oh! Ono. Ichiban jakenno」(Bumbyeは"あとで"というピジン語。ヨコヤマさんはこの言葉を最も頻繁に使っていた。Ono はハワイ語で"美味しい")、という具合だ。

日系人Milton Murayamaによる小説『All I asking for is my body』は1930年代、第2次世界大戦を背景にハワイへ移民した日系一世、二世が、移民キャンプでの貧しい暮らしの中で必死に生きていく姿を綴った作品だ。その中に、子供のセリフとして、次のような文が出てくる。

"Go tell that kodomo taisho to go play with guys his own age. You know why he doan play with us? Because he scared, thass why. He too wahine"
kodomo taisho は "子供大将"、つまりガキ大将を指す。Doan は "don't"、Thass why は "That's why"、Wahine はハワイ語で"女性"のことだ。すなわち、この文は「あのガキ大将のところへ行って、『同じ歳の奴らと遊べ』と言えよ。なぜヤツが俺達と遊ばないか知ってるか? 怖いからだよ。ヤツは女のように意気地がないのさ」という意味になる。

短い中に、日本語、英語、ハワイ語が混在しているセリフだが、この作品に登場する子供たち(日系二世)は、話す相手によって言語を使い分けている。教師の前では"良い英語"、友人同士では"ピジン・イングリッシュ" (当時学校では、ピジン・イングリッシュは教養のない言葉とされ、話すことを禁じられていた)、日本から遠い異国の地で厳しい移民生活を送る、日本語しか話せない両親には"日本語"というように。子供たちにとってハワイは生まれ故郷だ。周囲の白人やハワイ先住民、そして中国やフィリピンなど様々な国の移民たちとの間で、子供同士の交流も始まる。ピジン語は、互いに何とか馴染もうとして生まれた。日系二世の生きるたくましさが感じられる言葉だ。

"ピジン語"は今でも、若い世代の中に根強く生き続けている。しかしそれは、かつての日系二世たちが生活をする必要性から生まれてきた"ピジン語"とは少し異なる。現在は、新しい世代としての自分達のアイデンティティを、クールに自己表現する1つの道具になっているのだ。

かつての私がそうだったように、ピジン・イングリッシュを"ブロークン・イングリッシュ"と簡単に片付ける人もいるが、それは違う。ハワイにおけるピジン語は、日系人がハワイでたどってきた生活が沁み込んだ、貴重な歴史の痕跡なのだ。

第27回:奇遇
2012年05月11日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】たけのこの炊き込みご飯や蕗の炒め物。季節感いっぱいの春を楽しんだが、例年と違うのは花粉症。いったいどうしたのかと思っていたら、どうも昨日あたりからクシャミが出始めた。今年の寒い春でけやきの花粉が出遅れたのかな??
-----------------------------------------------------------------------------------------
ハワイへ行って間もなくのことだ。夫が仕事に出かけてしまえば、日中は私一人。狭いアパートを掃除し洗濯を終えれば、他に何もすることはない。時間を持て余した私は、自分用の車を持ち行動範囲が広くなったこともあり、ハワイ大学で聴講をしようと思い立った。特に何を勉強したいというわけでもなかったので、とりあえず日本で通った大学の専科、アメリカ文学のクラスをとることにした。

ハワイ大学はとてもオープンで、聴講を希望する者には年齢、国籍に関係なく門戸は広く開かれている。試験も一般学生と同等に受けることができ、成績表もきちんとついてくる。単位も取得でき、その気になれば一生かかって積み重ねた単位で、正式にハワイ大学の卒業資格も取れるのだ。

問題は、当時の私の英語のヒアリングが、大学の授業を理解できるほどであったかどうか。日常会話に関してはさほど問題はなかったが(電話は怖かった・・・)、大学の授業となると話は別だ。必死になって聞いたはずでも、授業の内容の半分も理解していなかったと思う。そこで隣の席にいたローカルの白人女性のクラスメートに、授業ノートを借りることにした。そして、これがきっかけで、その女性と親しく付き合うようになった。

ある日、私は夫と共にそのクラスメートのお宅の夕食に招かれた。
彼女の夫は日系人で、彼の両親も同居。ご両親と私たちは日本語も交えながら、ひとしきり話に花を咲かせた。その中で、日本はどこに住んでいたかと尋ねられ、東京だと答えたところ、彼女の夫はキチジョウジを知っていると言う。吉祥寺は私の庭のようなもの、世界は何て狭いのだろうと驚いた。

話も一段落してお腹もすいたことだし、みんなで夕食のテーブルについた。私たちがフォークとナイフに手を伸ばそうとしたその時、彼女たち夫婦は両手を前に組み、うつむいてお祈りを始めた。食事の前にお祈りする習慣はない私たちも、あわてて同じように手を組みうつむいたが、慣れないせいか何となく照れくさかった。お祈りが終わり、食事の前にまず出てきた飲み物はビールではなくミルク(暑いハワイでは、まずビールから始まるのが通常だった)。食事が終わった後にはコーヒーではなく水が出てきた。この家ではタバコも禁じられており、当時、ヘビースモーカーだった私の夫にとっては、少しつらい時間を過ごすことになった。それでも、そんな彼らの様子を見て、ずい分と規律正しい生活をしている人たちだな、と感じた。

それから数日たって、アパートのマネージャーのオナーと話をしているうちに、その日系人の話が出た。ヒロは狭い町なので、オナーは2人のことを知っていて、「あの人たちはモルモン教徒なのよ」と教えてくれた。

現在、アメリカでは11月に行われる大統領選が盛り上がっている。この選挙のカギを握る、中間所得層の票獲得をめぐって争っているのが、現大統領で民主党のオバマ氏と共和党所属のロムニー氏だ。これまでの大統領はケネディを除き、すべてプロテスタント。一方、ロムニー氏はモルモン教徒ということもあり、今まで以上に選挙の行方が話題を集めている。日本にいると、宗教のことを身近に感じる機会があまりないが、私はハワイで意外な出会いを経験したこともあり、今回の大統領選のニュースにも大いに注目している。

第26回:雨の都 ヒロ
2012年04月13日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今年の桜は、完ぺきなタイミングで、最高に美しいお花見ができた。武蔵野市役所前の通りを、花びらが散る中、淡いピンクのトンネルを車でゆっくり走る。日本人であることの幸せを胸いっぱいに感じた。
-----------------------------------------------------------------------------------------
ヒロは雨がよく降る町だ。北東からやって来る湿った空気を含んだトレードウィンド(貿易風)が、ハワイ島の中央にそびえるマウナケアとマウナロアの2つの山にぶつかり、その手前の町ヒロに雨を降らす。ハワイの町にして、別名"雨の都"という名を持つほどで、年間平均降雨量は東京のおよそ2倍だ。

ハワイへ行く前に観光案内書でそれを知り、お土産にしてもいいと思って折りたたみ傘を10本ほど買って用意した。その昔プランテーション時代に、サトウキビ畑に働きに出かけた日系移民は、『弁当忘れても傘忘れるな』と言ったそうだ。日系人が3分の1を占めるというヒロの町、"きっと雨が降れば住民はみんな一斉に傘を広げるに違いない"と想像していた。

しかし、ヒロの町で生活を始めてみると、どこを歩き回っても傘をさしている人など見当たらない。車社会ということもあるが、たまに見かける路上の若者たちは、雨に濡れることなど何とも感じないかのように、平然と雨の中を歩いている。すぐにまた太陽が顔を出し、雨に濡れてもたちまち乾いてしまうのだ。そんなハワイで生活しているうちに、逆に、"日本ではなぜ、ほんのわずかな雨でもすぐに傘をさすのだろうか"と疑問に思うようになったくらいだ。結局お土産にと思って買った10本の折りたたみ傘は、そのままアパートの物置の奥でほこりをかぶることになった。

26_image001.jpg


〔これがハワイかと思うような景色だ。マウナケアとマウナロアの山頂の雪。青々とした木々の手前に見えるのはサトウキビ。〕




この雨は、冬になるとマウナケアとマウナロアの山頂に雪を降らす。ハワイも日本の冬の時期は気温が少し低くなるのだ。ハワイに住んでいた当時、お正月になると日本からの観光客がワイキキビーチで海に入るのを見て、"寒くないかな~"と感じたものだ。

日本のガイドブックで、ハワイでは降雨量が多いだけではなく、雪も降ることを知った私は、あろうことか日本からの引っ越し荷物の中に、スキー道具一式をしのばせた。どんな山かも知らず、ハワイでスキーをすることを夢見て・・・。マウナケアは標高4205メートル、マウナロアは4169メートル。もちろん富士山よりずっと高く、簡単に山頂へ登れるような山ではないことは、ハワイで生活を始めてから知ったこと。ここでどうしてもスキーをしたければ、"4輪駆動のジープに乗るか、ヘリコプターを1台雇うかしない"そうだ。結局スキー道具一式も、折りたたみ傘10本と共に、1度も使われることなく物置の片隅に追いやられた。

ところが、実際にスキーを滑った人に会ったのだ。その人はシマダさんの友人で、還暦をとうに過ぎている女性。若い頃スキーで日本の国体に出場した経験の持ち主だが、縁あって40代半ばでハワイの日系人に嫁ぎ、優しいご主人と共に幸せな生活を送っている。ハワイに移住した後、何としてもマウナケアで滑りたいという彼女の望みをかなえるために、ご主人が4輪駆動のジープを買ってくれたそうだ。ついに望みは実現し、マウナケアでスキーを滑ったところが、途中で転倒して骨折。回復までにかなりの時間を要したと話してくれた。大学の体育の授業でスキーを習っただけの私など、ハワイでスキーを滑りたいと思っただけでも大それたことだった・・・。

  26_image003.jpg    26_image005.jpg
〔左:雪に覆われたマウナケア山頂。右はその雪の中を歩いていた人影。現在はマウナケア山頂まで道路が建設され、山頂への観光ツアーバスが走るようになった〕

しかし雨が多く降るおかげで、ヒロの町は木々の緑が美しく、雨が降った後にはきれいな虹がよくかかる。時には大きな二重の虹になる時があり、それを見て私はよく、オズの魔法使いの主題歌"Over the Rainbow"を口ずさんだものだ。『Somewhere over the rainbow way up high...』。私にとってこのハワイが、まさに虹の向こうにある夢の国だった.。


第22回:「お宮参りに聖水?」
2011年12月09日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今朝、ハワイの島田さんから久しぶりに電話をもらった。ご主人のジョーが亡くなって1年3ヶ月が経った。12月8日の開戦の日がジョーの誕生日で、生きていれば90歳になっていたという。ハワイの昔を知っている人々が徐々に姿を消していく。
-----------------------------------------------------------------------------------------
ヨコヤマさんに「昼と夜を間違えて生まれてきた」と言われていた息子の夜泣きも徐々に落ち着き、そろそろお宮参りをしなくてはということになった。新米ママとしては、首がしっかり座る前に連れ出すのが不安だったこともあり、お宮参りの日は生後100日目とすることにした。場所は地元で唯一の神社、ヒロ大神宮である。

22-001.jpg当日、夫はアロハシャツ、私はムームー、長男は暑い中、日本から送られてきたお宮参り用の産着を掛けてという、日本とハワイが入り混じったようないでたちだった。やることなすこと、全てが初めての経験。産着をどうやって掛けるのか、教えてくれる親もそばにはおらず、かつて何となく日本のテレビや雑誌などで見たおぼろげな記憶を探り、汗だくになりながら必死に準備をしてヒロ大神宮の鳥居をくぐった。

宮司は宮崎さんという方だった。始めに儀式の簡単な説明があり、長男がこれからすくすくと育つようにと、厳かに祝詞が挙げられお祓いをした後、あっと驚くことが起きた。なんと宮崎さんは水の入った器を手に取り、それをすくって長男の額と口にたらしたのだ。これではまるで、かつて映画で見た外国の赤ちゃんが教会で受ける洗礼式のようではないか! あれから35年以上経った今でも、あの時の驚きは鮮明によみがえってくる。あれは一体なんだったのだろう...。

そこで今回、この原稿を書くにあたり、ハワイにおける日本宗教、中でも神道に関していろいろと調べてみた。

最初にハワイの日系移民に広められた宗教は、意外にもキリスト教だった。先の見えない不安や労働の辛さから移民たちの生活が荒れ、日本から牧師の岡部次郎がハワイへおもむき、伝道を始めたのだ。その後、布教された宗教は仏教、神道と続き、1898年、ハワイで最初の神社がハワイ島に創立された。天照大神を祀り、当初は大和神社と呼ばれていたのだが、実はこの神社こそが長男のお宮参りに行ったヒロ大神宮である。ヒロのダウンタウンに建てられ、1903年にヒロ大神宮と改称されたが、社殿は1946年、1960年の2度のツナミに襲われたため、現在はハワイ大学ヒロ校に近い高台に再建されている。

神道は1941年の太平洋戦争の開戦と共に危険な宗教とみなされ、ハワイの宮司の多くが逮捕収監された。日系人はFBIなどの捜査を恐れて神社に近寄ることを避け、戦後も神社に参拝する日系人の数は減少。また日本語学校が廃止されたことから、日系2世3世の日本語離れが進み、神道はますます遠い存在となった。太平洋戦争を経験した日系1世と2世、そして若い世代の間に微妙なずれが生じ始めた。

戦後、ハワイの神社は、日本語をほとんど話せない若い日系人の世代に神道を広めるため、日本とは異なるスタイルで運営をするようになった。マウイ神社では宗教的な行事が終わった後、キリスト教会でよく行われるビンゴに興じる。またハワイ出雲大社の宮司は、建造物の地鎮祭やお祓いに出かける際に、ハワイ人のキリスト教の牧師とペアになって行くそうだ。キリスト教式の祈りと神道式の祈りとでタッグを組むというわけだ。

となると、あのお宮参りで行われた洗礼式のような儀式は、神道がハワイという土地に適応しようするひとつの姿だったのではないだろうか。大げさに言えば、ハワイにおける宗教変遷の歴史の1ページを目撃したということになるのかもしれない。私は勝手にそんなことを考えて、あの聖水の儀式を納得することにした。

参考資料:「海を渡った日本宗教」 井上順孝著  弘文堂
     「ハワイの神社史」 前田孝和著  大明堂
     「ハワイ日系人社会と日本宗教」 柳川啓一 森岡清美篇
                           東京大学宗教学研究室
     「ハワイ島日本人移民史」 ヒロタイムス

第21回:「新米ママの"笑い、時々涙"」
2011年11月11日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】我が家の外装の塗装工事がようやく終わりに近づいてきた。この2週間は足場とネットに囲まれ、文字通り「かごの鳥」状態。秋の爽やかな空気を味わうどころか、塗装のにおいに浸っていた。
-----------------------------------------------------------------------------------------
当然のごとく、長男が生まれてから生活は一変した。朝から晩まで、時間に追われる日々が続く。まずオムツの洗濯がある。相変わらずランドリールームは1階だから、毎日1階から4階を何度も往復する。当時、紙オムツはまだ貴重な品。ロングドライブに出かける時に使うくらいで、普段は日本から持参した木綿のさらしのオムツを使っていた。トイレの中でサッとゆすぎ、それを脇に置いた漂白剤の入ったバケツの中に入れて殺菌する。いっぱいになったら洗面台でゆすぎビニールの袋に入れ、ランドリールームへ担いでいく(オムツの殺菌方法はクレさんから習ったやり方だった)。長男を寝かしつけた合間を見計らっての、まるでゲームをしているような感覚だった。

定期健診も大変だった。小児科の担当医はドクター・バンパッサンといって、オランダ系のアメリカ人。日常の英会話はさほど問題なかったが、初めての子育てに関する様々な不安を尋ねるには、やはり準備が必要だった。ノートを1冊作り、和英辞書を引きながら質問事項を英文に直す。まず予防接種の名前を英語で調べる。それに加え「湿疹」「微熱」「鼻水」「ぐずる」・・・等々、長男の微妙な変化を英語で説明しなくてはならない。診察室でノートに書いた英訳した文を読みながらドクターに質問するまではいいのだ。問題はドクターの返答だ。とにかく早口で、おまけに猛烈なオランダ訛り?だ。
「○×△□#*・・・ OK?!」
毎回、彼の言葉の中で理解できたのは、最後の決めの一言「OK?!」だけ。これではかえって不安が大きくなる。そこでいつも日本語が分かる日系の看護師の方にそばにいてもらい、診察が終わった後改めて彼女に説明をしてもらう、ということが続いた。

どういうわけか我が長男は、昼間はぐっすり眠るのだが、夜になるとぐずって泣き出す。新米ママは昼間は何かと忙しく動き回り、夜は疲れ果てて少しでも休みたいと思うのにそれをさせてくれない。アパートの隣近所に泣き声が聞こえると迷惑なので、抱いてあやしながらあの狭いアパートの部屋の中を、夜中グルグルと歩き回った。時には車に乗せて、ヒロの町をドライブすることもあった。眠ったかなと思いアパートの駐車場に戻って車を停めると、思い出したようにまた泣き出す。あまりに辛くてヨコヤマさんに相談したところ、「昼と夜を間違えているからだ。長男の名前を紙に書いて、それを逆さにしてキッチンに張りなさい」と言われた。効果があったかどうかは、記憶に定かでない。

こんな新米ママの、「笑い、時々涙あり」の生活は、多くの人々の助けを得ながら、徐々に何とか要領を得るようになっていく。

笑い時々涙.jpg









〔『新米ママの"笑い時々涙"』の
           "笑い"の瞬間〕

第20回:人生で初の体験
2011年10月14日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】もうすぐナダルの母国スペインを訪れる。彼が生まれ生活している マヨルカ島はこのツアーのスケジュールにない。では何のためにスペインへ? ナダルが呼吸している国の空気を吸いに行くのです!
-----------------------------------------------------------------------------------------
ハワイで人生初めての様々な経験をし、成長していた頃、私のおなかにいる赤ちゃんも順調に大きくなっていった。「サードフロア」と呼ばれた、隣のアパートの4階へ引越してからはおなかがどんどん大きくなり、階段の上り下りも大変な状態。1階のランドリールームから大きな洗濯物のバスケットを抱えて上る途中、急におなかが張ってきて動けなくなることもたびたびだった。また、買い物から帰ってくると、我が家の駐車場のすぐ前に住む、アパートのマネージャーの奥さん、オナーが荷物を運ぶのを手伝ってくれることもあった。

私が診てもらっていた産婦人科医はドクター・A.タカセといって、ヒロでは評判の日系アメリカ人の腕利きのお医者様。ツルさんやクレさんに相談して決めたのだが、診察してもらう時の安心感はこの上ない。妊娠、出産という初めての経験を、身内がいない土地でこれから迎える不安を払拭してくれるような信頼感と暖かさのある先生だった。これからやってくる様々なステージを穏かに丁寧に説明してくれる。それでも未知のことに直面する期待と不安は私の心から溢れるようだった。"陣痛"と一言で言っても、それは一体どんな痛みなのだろう。どんなふうにやって来て、いつ頃病院へ行けばいいのだろう・・・。

日本にいる母には出産と同時に連絡をして、すぐに飛行機で飛んでくるという手はずになっていた。電話で出産のことを尋ねると「私のお産の時は、秋田のおばあちゃんが"障子の桟を数えられなくなったり、畳の目が見えなくなったりする頃生まれる"とよく言っていたものよ」と言う。ハワイの家には畳もないし障子もない。けれどそのくらいの痛さを感じた頃に生まれるのだろうと想像する。「日本人なんだから、少しぐらい痛いからと言って、声を上げたりしたら恥ずかしいのよ」と何度も諭された。

これが陣痛かと思うたびに病院へ駆けつけ、まだだから帰りなさいと何度か言われながら、ついに入院の許可が出た。ところがなかなか本格的な陣痛が起きず、結局陣痛促進剤を点滴しながらの出産となった。隣の分娩室からは「ギャー、ヘルプミー、ヘルプミー!!」と叫び声が聞こえる。そのすさまじい声を聞くと、母の「日本人なんだから・・・」という言葉が私の頭の中を行き来する。畳の目も障子の桟も見えなかったが、大声を出すこともなく何とか無事出産を終えた。

ヒロホスピタルでの出産の入院日数は2泊3日。出産直後ベッドで少し休んだあと個室に入り、トイレやシャワーはすべて自分で行う。(恥ずかしながら最初のトイレ行きで私は失神してしまった)。

長男誕生の翌日、ヨコヤマ夫妻は待ちきれないようにお見舞いに来てくれた。当時ヒロホスピタルで出産を迎えた母親に面会できるのは、母親自身の身内と夫だけだった。ところがヨコヤマさんは「私はアツコのヒロの父親じゃ」と言って強引に許可を取ったのだ。新生児室の前でずらりと並んだ赤ちゃんを見て、リチャードさんは「おお、あれがユアベイビーじゃの。やっぱり違うの。ジャパニーズベイビーは、イチバンじゃ」。そう言って目を細めた。

長男は太平洋で生まれた最初の男の子、という意味で「洋一郎」と名付けた。アメリカではミドルネームも付けるということで、ちょっと気取ってAllenとした。これは、恐れ多くもドクター・タカセのファーストネーム、Alan からいただいた名だった。


ヨコヤマさんと洋一郎.jpg
〔ヨコヤマさんにとっては、"初めての孫"のような存在だった息子の洋一郎〕













第11回:初めての"メレ・カリキマカ"
2010年12月22日

hawaii11-1.JPG
ハワイでの生活を始めてから間もなく、最初の12月がやってきた。毎日バタバタと忙しい日々を送っていたが、気がつくとヒロの町は、すっかりクリスマスカラーに染まっていた。アメリカ本土から遙か遠い太平洋の真ん中の常夏の島にも、クリスマスはやって来るようだ。どうやら、日焼けしたサンタさんがサーフボードに乗ってくるらしい(笑)。

町中の家々は創意工夫されたカラフルな飾りつけでライトアップされ、それは美しい。大きく開いた窓の周囲は色とりどりのライトが点滅し、その窓からは部屋の中の大きなクリスマスツリーが見えた。今でこそ日本でも、家庭での華やかなクリスマスの飾り付けがテレビ中継で流れるが、1970年代の日本では、そんな光景はほとんど見られなかった。当時の私にとってはまだ珍しく、町中に夢が溢れるようだった。ヒロはわずか4万人の小さな町だが、毎年クリスマスの飾りつけコンテストが行われ、その結果が新聞に発表されるほど、デコレーションに力を入れる。日が落ちると受賞者の家の周囲には、眺めに来る見物の車が後を絶たなかった。 
                      
そんなワクワクムードが溢れる中、ハワイに移り住んで間もなかった私たち夫婦は、町の地理もほとんど分からないまま、クリスマス・イブの様子を見ようと車で町へ繰り出した。10分、20分・・・クリスマスムードを求めて当てもなく車を走らせる。そのうち、ある通りに大勢の人が集まっているのが見えた。教会だ。やって来た人々は次々に明かりの灯った教会の中に入っていく。どの人もクリスマスの礼拝用に美しく着飾っていた。 
                 
ハワイの教会では一体どんなクリスマス礼拝が行われているのか、強烈な好奇心がムクムクと沸いてきた。外からチラッとでも中を覗けるかと思い、車を道路わきに停め教会の方へ近づいていった。何しろ全く事情が分からないので少々ビクビクしながら・・・。

するとドアの中から牧師さんらしき人がサッと出てきて、突然私たちの手を引いた。「Please come inside.  Don't hesitate」(どうぞ中にお入りなさい、遠慮などなさらずに) "えっ、中に入るの?遠慮も何も、そんなつもりは全くないんだけれど・・・"と言いたかったが、すぐには英語が出てこない。拒むこともできず言われるまま教会のドアをくぐり、私たちは一番奥の席に座らされた。右も左もローカルの人たち。もう逃げられない。ここまできたら覚悟を決めて、礼拝が始まるのを待った。

しばらくすると、クリスマス礼拝が始まった。キリスト教徒ではないが、アメリカでのクリスマス礼拝を経験するのもいいじゃないか。少しぐらいの英語ならなんとかなる、とタカをくくっていた。

ところが・・・だ。牧師さんが話す言葉が分からない。一言も分からないのだ。戸惑っているうちに、周囲の人は前のテーブルに置かれていた聖書を取り上げた。私たちもあわてて聖書を手にするが、どのページか分からない。すると隣に座っていたおばさんが、英語でページ数を教えてくれた。開いてみるとそこには賛美歌が出ている。メロディは良く知っているが、歌詞は全く見慣れない言語だ。

そこで、はたと気づいた。きっとここではハワイ語で礼拝が行われているのだ。

当時知っていたハワイ語と言えば「アロハ」ぐらい。チンプンカンプンの礼拝は緊張のあまり、まるで永久に続くように感じられたが、実際には1時間ほどで終わった。ホッとしながら教会を出る時、牧師さんが私たちにある言葉をかけてくれた。

hawaii11-2.JPG
それは「メレ・カリキマカ」。ハワイ語で「メリー・クリスマス」だった。

何も知らずに入った教会はハイリ・チャーチと呼ばれる、ハワイ島で最古の教会。現在でも礼拝は英語とハワイ語の両方で行われている。






-----------------------------------------------------------------------------------------
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近のわたし】12月の「師走」の声を聞いただけで、何だかせわしい日々が始まった。健康に1年を過ごせたことに感謝。来年もまた、ほんの小さな1歩でも前に進める年にしたい。