【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】1歳3ヶ月の娘は、戸棚や引き出しなど家中の扉を開けては中のものを引っ張り出します。毎日、しまっては出しての繰り返し...。子供の成長の早さには日々驚かされます。
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先日部屋を整理していたら、ある新聞記事が出てきました。それは、消滅寸前の言語をアボリジニの人々に教える日本人男性についての話でした。
クイーンズランド州パーム島(Palm Island)のアボリジニ言語、ワルング語(Worrongo)は、1981年に最後の話し手・アルフ・パーマー(Alf Palmer/ワルング語名:ジンビルンガイ(Jinbilnggay))さんが死去。誰も話す人がいなくなりました。その言語を復活させようと立ち上がったのが、日本の国立国語研究所の言語学者であり、アボリジニ言語の専門家でもある角田太作さんです。
1970年代にオーストラリアに留学していた角田さんは、パーマーさんから伝統文化や狩猟に関する知識とともにワルング語を学び、これを修士論文としてまとめました。そして、最後のワルング語スピーカーであったパーマーさんが亡くなった後、角田さんは「日本人でありながら、世界でたった1人のワルング語が話せる人」となってしまったのです。
それからしばらくして、角田さんのもとにパーマーさんの孫であるレイチェル(Rachel)さんからワルング語を教えてほしいという連絡がありました。そして角田さんは再びパーム島を訪れることに。こうして約20年もの間、地元で誰にも話されることのなかったワルング語が復活することになったのです。
その後も角田さんは、大学で言語を教える妻・三枝さんの協力を得て、何度もパーム島に渡っては現地の人々にワルング語を教えています。角田さんが作ったワルング語の辞書や文法ガイドは、現在パーム島のアボリジニの子供たちの教育に使われていますが、その辞書を作ったのが日本人だと知って驚く人も多いのだそうです。
アボリジニ言語については、「単純で原始的なもの」と考えられていましたが、角田さんは「非常に系統的で洗練された言語である」と言います。そして、ワルング語を教えるときには、彼らの言語がどれほど素晴らしいものかを伝えようといつも心がけているということです。文法が複雑であるにもかかわらず、現地の人々は不思議とスムーズにこの言葉を習得しています。
アボリジニの人々はもともと文字を持たず、言語は口承で受け継がれてきました。オーストラリアには350から750の部族が存在し、それぞれに異なる言語を持っていました。しかし、現在では100ほどしか残っておらず、そのうち20余りを除いては、ほぼ消滅に近い状態です。そのような状況の中、角田さんの活動は、彼らの言語伝承に大きく貢献しています。言語はアボリジニの人々の間で文化や伝統を受け継ぐためにとても重要な役割を果たしており、またアイデンティティを保つために必要不可欠です。
「私がワルング語を話す最後の者だ。私が死ねば、この言葉も死ぬ。私の知るすべてをお前に教えるから、しっかりと残してほしい。(I am the last one to speak Worrongo. When I die this language will die. I will teach you everything I know, so put it down properly. )」というパーマーさんの言葉を忠実に実現した角田さん。同じ日本人としてとても誇りに思います。
【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】ここ数日、ブリスベンでは雨が降り続いています。おかげで庭はジャングルのように...。ああ、クイーンズランドのまぶしい太陽が恋しい...。
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5月26日、「国家謝罪の日(National Sorry Day )」を記念した式典が、ブリスベン北部にあるカリンガ・パーク(Kalinga park)という公園で行われました。「国家謝罪の日」は、1997年の5月26日に"盗まれた世代(Stolen Generation)"(アボリジニの子供達を親から強制的に引き離し、施設に隔離する政策)ついて書かれたレポートが初めて公開されたことにより、定められました。そして2008年、この"盗まれた世代"の人々に対して、政府が初めて公式に謝罪。(第6回:忘れざる過去への謝罪 参照)その謝罪の記念碑がカリンガ・パークには設置されており、この日のセレモニーは、その記念碑を囲んで行われました。
当日は、小雨が降っていたにもかかわらず、大勢の人々が集まっていました。まず、オープニングでは、地元のエルダー(アボリジニの人々は敬意を込めて、年配者をエルダー(Elder)と呼びます)が、クラップ・スティック(Clap sticks)という拍子木を打ちながら歌を歌い、それに合わせてアボリジニの学生たちがウエルカムダンスを踊りました。そのあと、"盗まれた世代"であった人や、その世代を親や兄弟に持つ人、アボリジニの高校生などによりスピーチが行われました。また、"盗まれた世代"の政策のことを大人になるまで知らなかった学校の先生のスピーチなどもあり、どれも興味深い内容のものばかりでした。スピーチの合間には、ボディペインティングを全身に施した子供たちがダンスを披露。最初は恥ずかしそうにしていた子供たちも、皆の声援を受けながら3曲ほど踊りきり、得意げな様子でした。その姿がとても可愛らしく、会場もおだやかなムードに。観客の中にはその子供たちと同じ学校に通うアボリジニでない生徒もたくさんおり、普段見慣れない友人の姿を見て驚きつつも、彼らのパフォーマンスに感心しているようでした。
このように、アボリジニの子供たちがメインになってパフォーマンスをし、その姿を見た他の子供たちが、彼らと彼らの文化を誇りに思えるようなイベントを行うことはとても大切なことだと感じました。今回このイベントに参加して印象に残ったのは、アボリジニ以外の人々、特に学生が多かったこと。今までに参加したアボリジニイベントには、アボリジニの人がほとんどということが多かったのですが、この日はそれがとても印象的でした。アボリジニの歴史や過去の事実を何も教えないという学校も多かった数年前までに比べ、だんだんと学校教育も変わってきているのかもしれません。私の夫はメルボルンで育った白人のオージーですが、アボリジニの文化や歴史など、学校では何ひとつ教わらなかったのだとか。教わったのは「キャプテンクックが来て、オーストラリアを作りました」ということだけだったと言います。でも最近では、小学校で、オーストラリアの旗に加え、アボリジニやトレス海峡諸島民の旗などを掲げていたり、アボリジニの文化を勉強するために授業でブーメランを作ったりする学校もあるようです。
ネガティブな過去をなかったことにするのではなく、このような歴史的なイベントにも皆で参加し、生徒1人1人がその意味や歴史的背景を理解した上で、お互いを尊重し合うことができれば、こんなに素晴らしいことはありません。今後もこのように、学校でアボリジニの文化や歴史に関した教育をすることが定着すれば、アボリジニ以外の人々のアボリジニに対する見方や考え方が変わっていくのではないかと思います。この式典は、そんな未来への希望を感じさせるイベントでした。 左から、トレス海峡諸島民の旗、
【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】今日、ブリスベンにオープンしたモスバーガーのオープニングで、和太鼓を演奏してきました。すでにアジアではかなり展開しているというモスバーガーですが、オージーにはウケるのでしょうか...!?
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先月、ノワカの同僚エイミーが、あるアボリジニの人にまつわるドキュメンタリー 「ファントム島(Fantome Island)」の上映会を開きました。ファントム島はオーストラリア・クイーンズランド州の北東部、グレート・バリア・リーフ(Great Barrier Reef)の海に浮かぶ島のうちの1つ。この作品は、そのファントム島にハンセン病患者として送られた、ジョー・エグモリッス(Joe Eggmolesse)さんの物語です。
かつて感染率が高いとされていたハンセン病患者は、1907〜1959年まで、ブリスベンの離島、ピールアイランド(Peel Island)に送られていました。ここで白人の患者はそれぞれに家を与えられましたが、アボリジニの人々は掘っ建て小屋で大勢の人々とともに共同生活を余儀なくされます。さらに1939年頃、アボリジニは白人と同じ治療を受けるべきでないとして、政府がアボリジニの人々を本土からもっと遠い、北部のファントム島に隔離。この政策は73年頃まで続きました。ファントム島に送られた人々の手当てをしていたのは、医師ではなく、北アメリカから来た尼たち。実際はハンセン病に感染していないにもかかわらず、アボリジニというだけで送られた人も多く、彼らは病気ではないと診断されるまで、島に監禁されていたそうです。また、島から逃げようとするアボリジニの人々は、警察により手錠をかけられたり、鎖でつながれたりすることもあったほか、ファントム島に送られるまで1ヶ月以上もの間、本土の刑務所に入れられていた人々もいたと言います。
ジョーさんは7歳のときハンセン病と診断され、家族から無理やり引き離された後10年間、ファントム島に拘禁されていました。このドキュメンタリーの中で彼は、ファントム島の同窓会「Fantome Island Remembrance Day」を機に再び島を訪問し、島で生活を共にした友人やその家族との再会を果たします。2010年に初めて行われたこのイベントは、ファントム島の歴史や、そこで生活した人々を忘れないようにするためのものでもありました。ジョーさんは、尼たちが先生をしていたという掘っ建て小屋の小学校や、島で亡くなった人々のお墓などを訪れながら、島で最初に行われた結婚式のことやルール違反をした際の厳しい体罰のことなど、当時の様子を語ります。さまざまな経験をする中、ジョーさんは島で出会った女性・モーリー(Molly)との間に子供を授かります。さらにモーリーがハンセン病から回復。喜ばしいことが続きましたが、これにより、彼女はジョーさんより早くファントム島を離れることになってしまいます。モーリーはその後、「盗まれた世代」の政策の一部としてドミトリーに送られ、ジョーさんに会えない生活が続きます。ようやく2人が再会したのは、それから11年後のこと。しかし、喜びもつかの間、その後間もなくモーリーは亡くなったということです。また、2人の間に生まれた娘のデイジー(Daisy)は、モーリーがドミトリーに送られた後、親戚に引き取られ、33歳になるまでジョーさんに会うことはなかったそうです。
現在73歳のジョーさんは、このドキュメンタリーを通して、自分の子供や孫たちに自分のストーリーを知ってほしいと語っていました。「つらい思い出も多いけれど、ファントム島は自分の故郷だ」と言う彼。家族とはなれて暮らしていたジョーさんにとって、モーリーはもちろん、自分の身を削って手当てをしてくれた尼たち、兄弟のような友人たちや、親代わりになっていろいろなことを教えてくれた人たちは、かけがえのない大切な存在だったのでしょう。
当時、ファントム島のアボリジニの人々は社会に存しないものとみなされ、「ファントム島」が作られる現在まで、この事実はずっと隠されてきました。ジョーさんの友人でもあるエイミーは、少しでも多くの人にこのことを知ってもらいたいと上映会を開きました。上映会に来ていた映画プロデューサーのシーン(Sean)によれば、この作品は偶然から生まれたものだとか。シーンがファントム島近くの離島で映画制作のワークショップをしていたとき、あるアボリジニの人々からたまたまこの話を聞き、ドキュメンタリーを作ろうと決意したそうです。もし彼がこの話を聞くことがなければ、今もファントム島の過去は闇に包まれたままであったのでしょう。上映会に来ていた人々も、まったく知らされることのなかった過去の事実にショックを受けているようでした。今後、このドキュメンタリーを通して、より多くの人がファントム島の歴史に目を向けるようになればいいと思います。多くの人に認識をしてもらうことで、ジョーさんを含めたファントム島出身者、また亡くなられた方々の家族は、この事実を受け入れ、前向きになることができるのではないでしょうか。
◆「ファントム島(Fantome Island)」オフィシャルサイト http://www.fantomeisland.com/
【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】出産のためしばらくお休みをいただいていましたが、やっと復帰しました!初めてのベイビーとの生活で、毎日忙しくも楽しい日々を送っています。これからまた少しずつアボリジニ情報を発信できればうれしいです。
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1月26日は「オーストラリア・デー(Australia Day)」と呼ばれる祝日で、1788年にイギリス人が初めてシドニーに到着したことにちなんで定められました。オーストラリアでは毎年、各地でこの日を祝うたくさんの祭典が行われます。国内では、大半の人がオーストラリアの生まれた記念すべき日と考える一方で、アボリジニの人々の中にはこの日を白人に侵略された日と考える人もおり、彼らにとっては悲しい過去を改めて思い出す1日でもあるのです。
今年、キャンベラで行われた祭典では、ジュリア・ギラード首相やトニー・アボット野党リーダーなどによる、緊急救助関係者の表彰式を実施。同じ頃、「テント大使館」にも、アボリジニの活動家たちが200人ほど集まっていました。「テント大使館」とは、アボリジニグループが40年前に先住民族土地権を主張して、ビーチパラソルを立てて座り込み抗議を行った場所です。土地権が認められた現在でも、先住民族国家の代表として守り続けられています。表彰式の前に、アボット氏はラジオで「昔はテント大使館にも意義があったかも知れないが、問題は片付いた。有効期限は過ぎたのだ。もう次に進むべきではないか」と発言。これに怒ったアボリジニ抗議グループの人々の多くが、表彰式場の窓ガラスを叩き、ギラード首相やアボット氏に対して「恥を知れ(shame)」とか「差別主義者(racist)」などと叫んだのです。
グループの抗議対象はアボット氏でしたが、ギラード首相のボディガードは首相にも危険が及ぶと判断。首相は50人ほどの警察官とボディガードに守られて避難しました。その際、首相の靴が脱げたのですが、それを抗議グループが拾い、「トロフィー」のように掲げました。
靴は抗議グループによって首相に返されましたが、実はこのとき、靴を持っていたのは私の友人、グエンダでした。彼女はノワカを通して知り合った女性で、この日は抗議デモのためキャンベラまで足を運んでいたようです。
事件が起きた数日後、私は別の友人、ルースさんに会いました。彼女はアボリジニ活動家で、子供たちの未来のために少しでもアボリジニコミュニティが良くなるよう常に働きかけている女性です。彼女は抗議グループの取った行動をニュースで見て、とても腹を立てており「グエンダたちがしたことは間違っている。私が今まで子供たちに"暴力で物事は解決されない"と教えてきたことが水の泡になってしまった。彼らは何があっても暴力的な行動にでるべきではなかった」と語っていました。
確かにアボット氏の発言は不適切ではありました。しかし抗議グループの取った行動は、 アボリジニに対するイメージをネガティブなものにし、その場にいなかったアボリジニの人々にも非難の目が向けられたことでしょう。もちろん抗議者全員が暴力的な行動に賛成していたわけではないでしょうし、その場の勢いのようなものもあったのだと思います。
グエンダがキャンベラに向かった目的は、オーストラリア・デーへの抗議、そしてテント大使館40周年を祝うことであり、あのようなことが起こるとは想像していなかったはずです。彼女はとても優しく、かつ情熱的な女性で、いつも地域のアボリジニの人々のためにさまざまな活動を行っています。ただ、知らない人からすれば、グエンダもやはり「暴力的な抗議グループの1人」なのです。今回のようなことで、同じようにアボリジニコミュニティを良くしようと活動している人同士が対立するようなことになっては残念です。
問題はメディアにもあります。ニュースは「首相がアボリジニ集団に攻撃され、命からがら逃げました」ということに焦点を当てた話ばかりで、抗議グループに対する視線は厳しくなるばかりです。インターネットのブログなどでも「もう政府も謝罪したし、アボリジニはこれ以上、いったい何がほしいのか」といったような内容のものもいくつか見られました。
私個人としては、「オーストラリア・デー」という名前、もしくは日にち自体を変えるべきではないかと思います。 確かに、いつまでも過去を引きずっているわけにはいきません。でも長年にわたり、多くの屈辱を受けてきたアボリジニの人々にとって、この日が「侵略の日」であることに間違いはないのです。まずは本来の住人であるアボリジニの人々をリスペクトし、その上でお互いを尊重し合って、平和な社会を築いていけるといいと思います。
◆今回の
「オーストラリア・デー」 にまつわるニュース映像
「Julia Gillard Attacked in Riot」
http://www.youtube.com/watch?v=wo9BPqIols8
「Australian PM gets her shoe back after protest scuffle」
http://www.youtube.com/watch?v=9fcX94BLO28
【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】クイーンズランドでは、昨年末から続いた大雨の影響で歴史的な大洪水が起こりました。ブリスベン各地の人々が被害を受け、亡くなった人や行方不明になった人も大勢います。もう2度とこのような災害が起こらないことを心から祈っています。
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今回の原稿を書くにあたり、「新年」「お正月」というテーマをいただきました。しかし、これにはいくら頭をひねってもふさわしい話題が浮かんできません。というのも、元々アボリジニの人々は時間という概念を持っておらず、お正月どころか日本の「季節の行事」にあたるようなものは存在しないのです。もちろん現代のアボリジニ、特に都市部に住む人々は他のオーストラリア人と同じように、クリスマスや年明けを祝います。クリスマスは家族と盛大に過ごし、大晦日は友達とビール飲みながらカウントダウン。しかし、お正月を祝う習慣はなく、年が明けるといつもの週末とかわらず、BBQしたり、フットボールを見たり、ビーチに行ったりしています。ブリスベンのアボリジニの人たちもまさしくそんな感じです。
というわけで、「お正月」というテーマからは外れてしまうのですが、今回はアボリジニの人たちの"時間"に対する考え方について書いてみたいと思います。
前述したようにアボリジニの人々に過去や未来という時間の概念はありません。現代でも伝統的な生活を送っているアボリジニの人々は、"何時に待ち合わせ"とか、"何時から何時までこれをする"というように時間によって予定を立てることをしません。また、自分の年齢を知らない人々も大勢います。
彼らが時間の代わりに持っているのは「ドリームタイム(ドリーミング)」という考え方。祖先から伝わる数々の天地創造の神話を語り継いでいくことを指しています。天地創造の神話も大昔のできごとではなく、現在、そして未来へと続くと考えており、人々は、今この瞬間もドリームタイムをたどり続けているのです。アボリジニの人々は、ドリームタイムをそれぞれの生活に反映し、常に結びつきを保ちながら暮らしています。つまりドリームタイムは神話でもあり、歴史でもあり、また彼らが生活をする上での大切な概念でもあります。多くのアボリジニアート(ペインティングなど)には、そのアーティストのドリームタイムを表現しています。アボリジニの人々はもともと文字を持ちませんでしたから、アートによって、神話や概念、伝統を受け継いでいったのです。
ドリームタイムには確実な定義がなく、はっきりしたことは誰にも分かっていません。世界中の学者達が長年議論しているのに、いまだに確実なことはよく分かっていないそうです。アボリジニの人達も、地域や人によって異なる説明をします。でも、ドリームタイムとはこういうものであるという話を受け継いでいくこと、そしてそれを理解しようとし、自分の生活の中に取り入れて考えてみること、それ自体もドリームタイムなのではないかと私は思っています。
エミュー(オーストラリアネイティブのダチョウ)の卵にペインティングをした作品
ブーメランにペインティングをした作品
【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】今年のクリスマスは、メルボルンで夫の親戚と過ごしました。100人以上の超ビックなファミリーなので名前を覚えるだけで一苦労です...。
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数ヶ月前のある日、ノワカに1本の電話が入りました。出てみると、相手はシェリーと名乗る女性で、チアはいるかと聞かれました。自分だと答えると(オージーが"チエ"と言うと"チア"になる)、シェリーは、妹と子供たちが家に閉じ込められているから、助けてほしいと言うのです。よく話を聞いてみると、彼女の妹とは、ノワカコミュニティのママの1人、ニコールのことでした。
私は以前、地域の子供たちを集めてゲームやスポーツなどをするプログラムを担当していたことがあり、それを通してニコールの子供たちに出会いました。子供たちの送り迎えをするたびに、ニコールと会っていたので、彼女とは仲がよくなりました。
しかし、そのニコールと子供たちが閉じ込められているとは一体どういうことなのでしょう。焦りと不安でドキドキしながらも話を聞くと、閉じ込めたのは、なんと彼女の夫だとのこと。「夫って、あのいつも子供たちを学校まで迎えに行ってる優しそうなケニー!?」と、私は一瞬耳を疑ってしまいましたが、彼はどうやらアルコールが入ると人が変わってしまうそう。普段は優しいけれど、酔っていると、ニコールに暴力を振るうこともあるのだとか。彼はニコールと子供たちを家に閉じ込め、外から鍵をかけてどこかに行ったきり24時間以上戻ってこないとのこと。ニコールの携帯には、電話をかけるだけのクレジットが残っておらず、お姉さんにメールで私に電話をするように伝えたのだそうです。ニコールは半年くらい前に4人目の赤ちゃんを産んだばかり。これは早くなんとかしなければ、子供たちも危ないかもしれない。私はどうしていいかわからず、まずボスに相談をしました。ボスはすぐに家庭内暴力防止センターに電話し指示をあおると、そういうケースはとても危険なので、すぐに警察に連絡をするようにと言われました。単独での行動は絶対に避けた方がいいとのこと。ニコールのお姉さんに警察は呼ばないでほしいと言われていたので何だか悪い気がしましたが、ボスは安全上やむを得ないと言いました。
そこで今度は警察に電話をし、状況を説明。警察によると、彼はまだ家の周りにいるはずだとのこと。作戦としては、まず5人のポリスマンが現地に向かい、離れた場所にパトカーを停め、彼らの家の周辺に隠れて待機する。そして私たちノワカスタッフが普段を装い家を訪れ、彼が出てきたところを確保する...というもの。しかし実際には、私たちが家に着く前にケニーは戻って来ました。私たちがたじろいでいると、2人のポリスマンがすぐさま出て来て、何かケニーに話した後、手錠をかけました。ケニーは暴れることもなく、すんなりと手錠をかけられ、別のポリスマンが迎えに来たパトカーに乗って、連れていかれました。
そのあと残ったポリスマンたちによってドアが開けられ、泣きはらした目をしたニコールと子供たちが出てきました。彼女の額には殴られたような跡がありましたが、子供たちは状況が把握できていない様子でいつも通りニコニコしていました。
数日後、ニコールに電話してみると、ケニーは釈放されて、彼のお姉さんのところで療養中とのことでした。お姉さん曰く、ケニーは自分でもよくわかっており、酒を止めようと努力はしているものの、なかなか止められない状況が続いていたということ。
それから数ヵ月経ったつい先日、道端でばったりケニーとニコールと彼らの4人目の赤ちゃんに会いました。ケニーは軽くあいさつだけすると、恥ずかしそうにどこかに行ってしまいしたが、ニコールも赤ちゃんもとても元気そうでした。ニコールは、「あれ以来ケニーはお酒を口にしていないし、これからも飲むつもりはないと言って頑張っているの」と言って嬉しそうにしていました。
残念なことに、ケニーに限らず、アボリジニコミュニティでの家庭内暴力は珍しいことではありません。ほとんどの場合はアルコールやドラッグが原因です。ノワカでは、アボリジニ男性を対象にしたプログラムを実施することを予定しています。参加者は男性限定、彼らが現在抱えている問題や悩みをオープンに打ち明けられるスペースを作ることが目的です。このプログラムが、少しでもアルコール中毒などによる家庭内暴力に悩む男性とその家族の役に立ってくれることを願っています。
【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】最近は、ノワカ、翻訳、和太鼓の繰り返しの日々を送っています。今月は7回も太鼓パフォーマンスが入っているので、大いそがし...。でも、頑張って日本文化を広めます!
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今回は、第2回(「夢と希望を与える勝利」)でも少し触れた"ケビン・ラッド(Kevin Rudd)首相のアボリジニの人々に対する謝罪"についてお話したいと思います。たった2年前に起こった、オーストラリアのアボリジニと白人の歴史を知る上でとても重要な出来事です。
1860年ごろから約100年にわたり、オーストラリア政府は、アボリジニやアボリジニと白人の間に生まれた子供たちを親元から強制的に引き離し、政府やキリスト教会運営の施設に隔離していました。そして、子供たちに「アボリジニ文化は悪いものである」と教え込み、徹底的な西洋教育を施したのです。成長すると、彼らは召使いや牧場労働者として白人社会に送り込まれ、多くの場合は二度と家族のもとへ戻れませんでした。
この政策の結果として、アボリジニの人々は、家族や文化はもちろん、アボリジニとしてのアイデンティティさえ喪失することになりました。また、本来であれば次の世代に受け継がれるべき、多くの伝統や生活様式なども失われたのです。施設で精神的・肉体的な虐待を受けた人々も多く、彼らは"盗まれた世代(Stolen Generation)"または"盗まれた子供たち(Stolen Children)"とよばれ、今も心身の傷は癒えないままだと言います。
そして1997年5月26日、政府はこの政策をまとめたレポート"Bringing them Home"を公開。この内容は国内に衝撃を与え、大きな議論が起こりました。その翌年からは、反省の意を込めて、5月26日を"National Sorry Day(国家謝罪の日)"としましたが、当時の首相だったジョン・ハワード(John Howard)氏はアボリジニの人々への謝罪を拒否。しかし2007年にケビン・ラッド氏が首相に就任すると、議会で正式に謝罪の演説を行ったのです。
私はこの様子をテレビで見ましたが、ラッド首相は謝罪文のなかで「sorry」という言葉を何度も繰り返していました。この言葉を聞くため、議会の行われた首都キャンベラには、オーストラリア全国から1000人近くのアボリジニの人々が集まりました。その多くは"盗まれた世代"の人々や親族で、謝罪の言葉が流れると、うなだれて泣き始める人々もいました。多くは首相の謝罪を受け入れ、「アボリジニにとっての"ベルリンの壁の崩壊"だ」、「この言葉は多くのアボリジニにとって大きな意味がある」などとコメント。しかし一方で「政府は私たちの両親の願いに耳を貸さず、親元に帰ることを認めようとしなかった。記念日の意義は認めるが、失った過去は戻ってこない」と語る人もいました。また国会議員の中にも、「過去の政策は善意に基づいたものだ」と演説に反発する人がいるなど、さまざまな議論が起きました。
それでも、この謝罪はアボリジニにとって大きな意味のあることだったと思います。当時の影響は現在もまだ色濃く残っており、演説で全てが解決されたわけではありませんが、オーストラリアが未来に向かうための大きな1歩となったことは間違いないでしょう。
"Sorry day"を記念して、ネイティブ樹木の苗を ノワカスタッフとコミュニティの子供、一緒に苗木
植えるノワカスタッフ
苗木の行われたコミュニティセンターにあるペインティング。
【written by メイソン千恵(めいそん・ちえ)】オーストラリア人の夫と共にブリスベンに在住。現在はオーストラリアの先住民、アボリジニを支援する団体「ノワカ」で活動中。驚きや感動を抱きながら、独特の文化と生活に触れている。
【最近の私】先週末、お気に入りのトルコ料理屋に行ってきました。とくにケバブは、安くて絶品。そこら辺のケバブ屋さんとは比べものになりません!
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先日、いつものようにノワカに行くと、スタッフの1人が何やらカンカンに怒って話をしていました。よく聞いてみると「ポリスはマジで最悪だよ。今朝も普通に歩いてただけで止められて、職務質問を受けたんだぜ」とのこと。その彼は、駅からノワカまで普通に通勤していただけなのに警察に呼び止められ、何をしているのか、どこへ行くのかなど聞かれ、IDの提示を求められたのだそうです。しかも、彼が「そんなことする義務はないはずだ。オレはただ、仕事に行こうとしているだけじゃないか」と答えたところ、その警官は彼が飲んでいたコーラのペットボトルを指さし「それ、本当にコーラ? アルコール入ってないよね」などと、かなり失礼なことを言われたのだとか。でも、彼がこういう体験をしたのも、私がこういった話を耳にしたのも、初めてのことではありません。
別のアボリジニの友人の息子は中学生なのですが、休みの日に両親に迎えにきてもらうために公衆電話から電話をかけていただけで、警察に呼び止められ、IDを見せろと言われたそうです。私や夫(白人)は道を歩いていて監視している警察をみたことは何度もありますが、呼び止められたことは一度もありません。また先日、アボリジニの友人と彼女の子供たち3人とスーパーのレジで並んでいたところ、すぐ横に並んでいた5歳ぐらいの小さな男の子が、お母さんの手を引き「ママ見て、アボリジニだよ。悪い人たちでしょ。おまわりさんを呼ぶ?」と言ったのです。その母親は逃げるようにしてその場を去ってしまい、私はあきれ、友人は苦笑していました。
オーストラリアでは、アボリジニに対する警察の対応は悪く、アボリジニというだけで不公平な扱いを受けることが少なくありません。例えば、公共の場での飲酒は禁止されているのですが、もしみつかった場合でも通常は現状注意、悪くて罰金程度ですみます。ところが、アボリジニの人たちが同じことをすると、即逮捕です。2008年の調査によると、刑務所内のアボリジニの人数は、刑務所全体の24%。アボリジニ人口はオーストラリア全人口の2.5%ほどですから、この数字がどれほど大きいものかが分かります。私のアボリジニの友人の中でも、過去に軽犯罪で刑務所に入ったことのある人も少なくありません。ある友人は、「アボリジニにとって、刑務所(少年院)は、学校みたいなもんだよ」と言っていました。刑務所で子供を産んだ女性や、刑務所で生まれたという人もいます。
また、刑務所でのアボリジニの人々の扱われ方の悪さも度々問題になっています。つい先日(2010年3月11日)にも、悲惨なニュースが報じられました。タウンズビル(Townsville)にある刑務所に軽犯罪で服役していたブリスベン出身の18歳の青年が、刑務所側の悪対応により亡くなりました。この青年は持病があり、10日間苦しんでいましたが、刑務官には「トイレに行くだけの元気があるなら、大丈夫なはずだ。何も問題ない」と、痛み止めを与えられ放っておかれたとのこと。最後に様態がかなり悪くなり、病院で集中治療を受ける段階になるまで家族には知らされなかったようです。
アボリジニというだけで、何の罪のない人々が警察やその他の人々から疑いや偏見の目を向けられることが日常的に起こっている中で、アボリジニの人々が腹を立てるのも当然です。しかし、そういった状況で暴言を吐くアボリジニに対し、周囲の目は冷たく「ああ、またアボリジニが暴れている。近づかないでおこう。」という感じです。こうした状況の中、アボリジニの若者は反発して罪を犯すようになり、警察はまたむきになって彼らを追い、刑務所のアボリジニ人口は増え続け、周囲のアボリジニに対する偏見はさらに強くなる...という悪循環の繰り返しなのです。
今後、オーストラリアの警察や刑務所がアボリジニの人々に対する不正な行為を改め、アボリジニの人々に対する社会の状況が少しでも良くなることを心から願っています。
■アボリジニの青年が亡くなった事件を報じるニュースの映像
私は現在、オーストラリア・ブリスベンに住み、アボリジニを支援する専門組織、ノワカ(NWAICA-North West Aboriginal & Torres Strait Islander Community Association Inc.)で働いています。ノワカは、地域のアボリジニの人々のサポートやイベントなどを行なっており、アボリジニのママさんやその子どもたちと触れ合う機会が多くあります。
アボリジニのママさんたちは、若くして子だくさんなのが一般的。10代で最初の子供を産んで、25歳で5~6人の子持ちというのも珍しくありません。私の友人は30代前半で10人の子供がいます。しかも彼女は働くシングルマザーだと言うから驚きです。
アボリジニの人々は、あまり結婚という概念を持っていないようで、こうしたシングルマザーがたくさんいます。しかしみんなたくましく、責任を持って立派に子供を育てています。また、夫がいる場合でも、子供たち全員と血のつながりがあるとは限りません。夫(彼氏)のことを尋ねると、「暴力がひどいので別れた」とか、「今は刑務所にいる」などワイルドな答えが返ってくることも。みんな本当は、家族思いのいい人たちであるにもかかわらず、です。その根底には今もオーストラリアに残っている、アボリジニへの差別があります。
表面上、差別はなくなったように見えますが、アボリジニというだけで、就職すらできないこともたびたびです。その結果、生活保護を受け、何事にもやる気を見出せないまま毎日を送っている人々が大勢いるのです。さらに、現実逃避からアルコールやドラッグにはまっていく人も多く、これが家庭内暴力や犯罪を繰り返す原因のひとつになっています。
しかし、その一方で、状況を少しでも良くしようと社会に働きかける人や、子供たちの将来のために、しっかり父親・母親としての責任を果たしている人たちもたくさんいます。私は、ノワカの活動を通して、そうやって頑張っているアボリジニのママさんとパパさんを応援したいと思っています。
ヒップホップラッパーのパパ、ジェフリー 友人ジェイムス(写真中央)の姉妹ファミリー
最愛の娘とツーショット