【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】1月13日から開幕したテニス全豪オープンにどっぷり浸かっている。
今大会は何と日本人選手が5人も参戦。もちろん一番の期待の星は錦織選手。ベスト8をかけてナダルと対戦したが、惜しくも敗戦。しかしチャンをコーチに迎えた錦織選手は一皮むけた。ガンバレ!
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前回のコラムで、以前、夫とハワイを訪れたときの話を書いた。そのとき初めて聞いた"Niuli'i"という地名は、ヒロにいる間中、私の頭を離れなかった。そして150年以上昔、日本からハワイへ移住した人たちが、常夏の日差しの下で、サトウキビを刈り入れる姿に思いを馳せた。大勢の日焼けした人々に混じり、ヨコヤマさんの仏壇に置いてあった、セピア色の写真の中にいる横山亀吉さんが鎌を振るっている・・・あたかも目の前にそんな姿が見えるほど、私には"Niuli'i"という名前が神秘的に聞こえた。
このヒロ訪問の旅の後半で、私はどうしても未知の場所Niuli'iを訪れてみたいと思った。ジョージ宅でバーベキューをご馳走になった翌日、私と夫はNiuli'iへと向かった。みんなの顔を見ると名残惜しくて涙が出そうになるからと前日のうちに別れを告げ、当日は誰にも会わず静かに出発した。
ヒロのダウンタウンから国道19号線に入り、Niuli'iのある島の北部を目指す。途中、レトロな雰囲気を色濃く残す小さな町ホノムから山のほうへ入り、懐かしいアカカフォールを見た。周囲には、わずかにサトウキビが生えている。40年近い昔、私がこの島に暮らしていたころは、19号線の周囲はどこを見てもサトウキビだらけだった。風にそよぎ、サラサラと揺れるサトウキビを眺め"ああ、ハワイだな~"そう感じながら、ハワイの空気を胸いっぱいに吸い込んでドライブしたものだ。それが今、ハワイ島では全くと言っていいくらいサトウキビの姿を見ない。現在ではカウアイ島とマウイ島の2島でしか生産していないのだ。
〔アカカフォール〕
砂糖産業が減少した理由はいろいろある。かつてはプランテーションに集まったさまざまな国の移民の豊かな労働力があったが、今では人件費をはじめとする多くのコストが砂糖産業の経営を圧迫している。また刈り取ったあとのサトウキビの葉は以前なら燃やして、次の収穫の肥料にしていたが、何事につけ環境に配慮を求められる現況で焼畑は許されなくなった。
〔わずかに残るサトウキビ〕
しかし減りはしたものの、依然として砂糖はハワイの中心産業の1つ。最近では付加価値を高めたものが生産されるようになった。"Speciality Sugar"とよばれるマウイ産の砂糖は甘さに風味があり、私はわざわざ通販でハワイから取り寄せたりしている。
これとは別に、サトウキビの新しい可能性として最近注目されているのが、「バイオエネルギーの原料」という使い方だ。ハワイ州内でのエネルギー源として、現在は風力、水力、地熱、太陽熱などの整備運用が計画されている。サトウキビもこうした自然を利用したエネルギー・バイオエタノールの原料として、これから用途が広まっていくだろう。
こうして時代が移り変わるとともに、ハワイも姿を変えていく。そんな中、かつてと変わらない美しいハワイの海と空。私は、アカカフォールから再び国道19号に戻るときの、山の上から海を見下ろす景色が大好きだった。その景色はいつ見ても変わらない。
ここからさらに目指す島の北部には、Niuli'iのほかに、私がどうしても訪れたい場所が待っていた。
ハワイ大学のサマーセッションに参加したとき、ふと立ち寄ったホノカアの町で出会い、アロハスピリットを教えてくれたグレース(第34回参照)に、どうしても一目会いたかったのだ。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】10月30日、右足首骨折。ハワイ旅行キャンセル。次男にふたごちゃん誕生。名古屋へギプスをはめてお祝いに。最近は1週間が束になって逃げていくのに、この1カ月はある意味、とっても充実していた。自宅療養中もじっくり手仕事をやったし。骨折で済んだことも、ラッキーだった。
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11月4日からのハワイ旅行を目前にして、私は自転車の横転事故で、右足のくるぶし剥離骨折と右足小指の付け根を骨折。転倒と同時に、あんなに楽しみにしていたハワイが突然目の前から消えていった。
久しぶりの再会を約束していたシマダさんには、なんと言おう。ケアホームに入所したシマダさんは、私がハワイを訪れるのを心待ちにしているのだ。がっかりさせたくないからといって隠しているわけにもいかず、まずジョージの奥さんエミにメールで事情を伝え、ハワイ行きが延びたことを連絡。次の日に意を決してシマダさんの携帯に電話をした。
「シマダさん、アツコです・・・」
「エミから聞いたよ。ケガしたんだって? ハワイへは来れないの?」
「右足を骨折して、ギプスをはめているの。1ヶ月は動きがとれないから、今回の旅行はキャンセルになりました。でもね、来年は必ず行くから。3月頃に必ず行くからね」
「アツコさん、じゃ私、それまでなんとか元気でいるからね。必ず来てくださいよ。今ね、ジョージとエミがとっても良くしてくれるの。昨日も私をランチに連れて行ってくれたの。私、涙が出るほどうれしいよ。ホントにうれしいよ」
気の強いシマダさんだが、情はそれ以上に強い。夫のジョーも亡くなり、息子はオアフ島に住んでいる。近くにいる甥のジョージとエミが毎週のようにシマダさんのケアホームを訪れ、買い物やランチに連れ出してくれるのが、何よりの楽しみとなっているようだ。
以前私が夫とハワイ訪問中、ジョージの一族みんなが集まり、ガレージでバーベキューをしたことがある。お腹もいっぱいになり、部屋に入ってデザートのケーキを食べていた時のことだ。シマダさんが珍しく昔の思い出話を始めた。
「ヨコヤマの兄さんは、子供の頃とってもスマート(頭がいい)だったのよ。成績もとてもよかった」
「ヨコヤマさんはコハラ(ハワイ島北部の小さな町。カメハメハ大王の故郷)の生まれだと聞いていましたけど、コハラのどの辺ですか」
「コハラのもっと先のニウリというとこよ。小学校はマカパラ」
これは私たちにとって全くの初耳だった。あれほど親しくしていたリチャード・ヨコヤマさんだったが、幼いころの話は一度も聞いたことがなかった。私は急いで紙とペンを出し、その街の名前を書いてもらった。
「確かNiulii というスペルだったと思うよ。小学校はMakapara-elementary school」
この『Niulii』という文字を目にしたとたん、私にはそれが未知の扉を開ける呪文のように思えた。ハワイ島に滞在している間にヨコヤマさんの生まれた、このNiuliiという場所に行ってみよう。そしてヨコヤマさんが子供の頃を過ごしたMakapara小学校をこの目で見てみたい。私は突然そう思い立った。
ヨコヤマさんの両親の写真は、彼の自宅の仏壇に飾ってあったのを覚えている。ヨコヤマさん宅を訪れるたびに、何度も目にしたセピア色にくすんだ古い写真だ。お父さんは名前を横山亀吉といった。お母さんは写真花嫁として同じ広島から嫁いできた。そこまでのことは知っていた(第8回、第9回参照)。そしてシマダさんの話から分かったのは、ご両親はハワイ島北部の『Niulii』というところに生活の基盤を置き、サトウキビを育てる生活を始め、リチャードさんを始めとする家族を形成したということだ。
「シマダさんやヨコヤマさんのご両親は、広島のどこに住んでいたのですか?」
シマダさんは、はっきりと答えた。「確か、安芸の中野といったよ」
これでリチャード・ヨコヤマさんのルーツがはっきりした。
広島の安芸、中野に住んでいた横山亀吉さんは、新天地を求め、1カ月以上の長い船旅の末ハワイにたどり着く。そして写真を携えてやってきたお嫁さんとともに、ハワイ島Niuliiという場所で、苦労しながらも必死に家庭を築き上げた。
よし! ヨコヤマさんのハワイでのルーツを、この目で見よう! そして、いつか広島へも行ってみよう!
見に行かなければならないところは、まだたくさんある。シマダさんとの約束も果たさねばならない。骨折よ、早く良くなれ!
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】テニス仲間とのハワイへの旅が近づいてきたが、肝心のハワイ島の火山が静まってしまっている。
それに加え、アメリカでの予算通過を巡り、政府の活動が休止状態。ハワイ国立公園も入場が不可能とか。火山の女神ペレはアメリカの状況に合わせて、お昼寝でもしているのだろうか
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今年11月に念願の再会を果たすことになっている、リチャード・ヨコヤマさんの妹のシマダさん。「今年こそ会いに行くから」と毎年約束をしながら、私の家族のことで忙しい日々が続き、なかなか実現できずにいた。私の長男が6月にジャカルタへ転勤となり、彼の家族も10月初旬にジャカルタへ出発。ようやく一段落ついたのを機に今年こそヒロを訪れようと思っていた矢先、ヨコヤマさんの甥の奥さん、エミからメールが来た。
「アンクル・リチャードの長女、パットが亡くなったのよ。そしてシマダさんが自宅の階段から滑り落ち、今ホノルルのクイーンズホスピタルに入院している。ろっ骨を6本骨折し、そのほかにもひどい打撲と鞭打ち症で痛みがひどいようよ。パットのお葬式のためホノルルに行くので、その時アンティ・シマダの様子を見てくるから、また連絡するわね」
フラダンスが上手なパットが亡くなった。40年前、初めてヨコヤマさん宅を訪れた時、彼女は真っ白なドレスを着て、フラを踊ってくれた。それまではただ腰を振って踊る南国のダンス、というイメージしかなかったフラだが、パットの場合は本当に優雅で格調を感じさせる踊りだった。いつも穏やかな笑顔を絶やさない、知性あふれる女性だったことを覚えている。
そしてシマダさんが大変なことになっていた。彼女の家のベースメントへ降りる階段は、私でさえも少し急に感じられるほどだった。あそこから滑り落ち、ろっ骨を6本も骨折。ただその後のエミの情報によると、高齢にも関わらず、医師が驚くほど元気だそうだ。退院も間もなくで、ヒロのケアホームに入院する予定だという。私は矢も盾もたまらず、シマダさんの携帯に電話をした。
「ハロー」
「シマダさん、東京のアツコです。大丈夫? 階段から落ちたんですって?」
「アツコさん、どうして知ったの? ああ、エミが知らせたのね。 電話ありがとうね。あさっては私の90歳の誕生日だから、電話をくれたの?」
そうだった。シマダさんは、自分の誕生日は広島に原爆が落ちた8月6日だといつも言っていた。私はそのことをすっかり忘れていたのだが、偶然電話をかけた日がその2日前で、シマダさんは喜んでくれたのだ。
「ワタシ、大丈夫よ。ドクターがびっくりするくらい元気なのよ。毎朝30分歩いていたからだろうって。」
「シマダさん、今年こそ会いに行くからね。必ず行くからね。元気でいてくださいよ。」
「アツコさん、必ず来てね。はやく来ないと私ぼけてしまうよ。ぼけてから会っても、もう分からないからね。早く来てくださいよ。」
シマダさんはカラオケが大のお得意。カラオケセットと大きなスピーカーをバンに乗せ、日系人会の集まりがあると西に東に馳せ参じる。日本にいる友人から贈られた男物の着物を着流しにし、兵児帯を粋に締めてマイクを持つ姿はプロ顔負けだった。十八番は中村美律子の「河内おとこ節」、そして北島三郎。長男の結婚式には、サブちゃんの「橋」をシマダさんが熱唱し、テープに録音して送ってくれた。
"この世には目には見えない橋がある 親子をつなぐ橋がある
這えば立て 立てば歩めと大事に育て 親から旅立つ日が来ても...
親にとって、子供の結婚式にはまさにうってつけの歌だった。ただ、恵比寿の素敵なホテルで、純白のウエディングドレスの花嫁さんの前で流すにはちょっと場違いで、少々気が引けたが。
2010年9月に亡くなったシマダさんのご主人は、誕生日が12月8日。シマダさんは、"日本がアメリカと戦争を始めた日よ"といつも言っていた。彼女が、心の中で常に大きな存在となっている日本を訪れた回数は13回にも及ぶ。それでも足りなくて、もっともっと行きたいと言っている。日本の演歌をこよなく愛し、日常のすべてが両親の母国へとつながっているシマダさん。声だけを聞いていると、昔と変わらぬ姿を想像してしまうが、実はもう90歳なのだ。
〔シマダさん夫妻がまだ元気だったころ。
右奥に見えるのがご主人のジョー〕
両親が日本からハワイへ移住し、当時の移民生活の様子を良く知っている日系二世は、今や誰もが高齢となってきた。だが不思議とシマダさんの口から、そんな話を聞いたことがない。今度会った時には、ぜひ昔の懐かしい話を思う存分聞いてみたいものだ。シマダさん、いつまでもお元気でいてください。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】つい先日、ジャカルタから帰ってきた。25年前に2年間生活した街が、どんなふうに変わったかを見るのが楽しみだった。表から見える街並みは確かに豪勢になったが、やはり貧富の差はかつてと変わりない。外国人向けの豪華なアパートメントの1本通りを隔てた側には、バラックが並んでいた。国が変貌を遂げるには長い時間がかかるようだ。
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早朝のまだ薄暗い中、突然電話が鳴った。受話器の番号表示の"表示圏外"を見て、私は胸騒ぎを覚えた。案の定、電話はヒロのシマダさんからだった。「アツコさん、兄さんが亡くなったよ」。言葉を失う私。涙がとめどもなく流れた。恐れていた予感が的中してしまったのだ。
ヒロでの滞在中、まるで本当の子供のように可愛がっていただいた、リチャード・ヨコヤマさんは、1998年9月15日に亡くなった。83歳だった。
何度かシマダさんとの電話のやり取りで、ヨコヤマさんがすでに体調を崩していることは知っていた。最悪の事態がいつでも起こり得ると予測はしていたものの、実際の悲しみは例えようがなかった。あれからもう15年も経っているのに、いまだにヨコヤマさんを失った寂しさは、心にぽっかりと大きな穴を作っている。
ヨコヤマさんとの思い出は、いくら語っても語りつくせない。私がハワイを第二の故郷と思う最大の理由は、ヨコヤマさんの大きな存在があったからだ。考えてみれば、私のヨコヤマさん一家との付き合いは、わずか1年8か月。この短い期間に、あれほど親密な人間関係が作れるものなのかと、自分でも不思議になるくらいだ。あのヒロでの生活は私の一生の宝物だ。
亡くなる半年ほど前、私は大学の仲間と共にハワイを訪れた。そしてヨコヤマ宅を訪問したが、その時すでにヨコヤマさんの意識は混濁していた。親族が大勢集まったリビングルームでいつものソファーに座ったまま、ヨコヤマさんはぼんやりと私のほうを眺めていたが、私が誰かは判別できていないようだった。そんな姿を見ると、元気だったころのヨコヤマさんが心に浮かび、胸が締め付けられる思いがした。「おおアツコ、よく来たな。Longtime no see.(久しぶりだな)」そう呼びかけてほしかった。ウクレレを弾きながら、あのしわがれ声でハワイアンを歌ってほしかった。
その席でエミ(ヨコヤマさんの甥ジョージの奥さん)が、「アンクルは"早くツル(ヨコヤマさんの妻)のところへ行きたい"と、いつも言っているのよ」と私に言った。まさに夫唱婦随の二人で、2年前の1996年8月にツルヨさんが亡くなって以降、ヨコヤマさんはまるで片腕をもがれたようにがっくりと力を落とし、生きる意欲を失ったそうだ。
ヨコヤマさんは亡くなる前の数カ月間、ヒロのケアセンターに入っていた。数年前に夫とヒロを訪れた時、ヨコヤマさんが最後の日々を送ったそのセンターをどうしても見たくて、車で前を通った。"ハレ・アヌエヌエ・ケアセンター"という名前の、静かなたたずまいの施設だった。
私たちが知り合った当時のヨコヤマさんは、人生でも最高の時代だったように思う。それから40年の歳月が過ぎ、ヨコヤマさん夫妻はすでにこの世にいない。しかし一家との繋がりはいまだに続いており、数年おきにヒロを訪れてはその交流が続いている。今年もまた11月にはヨコヤマさんの甥ジョージ、エミ夫妻、そしてヨコヤマ家最後の一人となったシマダさんに会うことになっている。ヒロを訪れるとき、私はヨコヤマ夫妻のお墓参りを欠かさない。ヒロでの幸せだった日々の思い出を心に抱きながら、感謝の気持ちをせめてそんな形で表せたらと思いながら・・・。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】本当に暑い毎日が続いている。8月末に長男の赴任先、ジャカルタに1週間ほど行く予定だ。友人にそのことを話すと、誰もが「ジャカルタ、暑いでしょうね」と言うが、今の東京の暑さに比べれば、大したことはない。日本は本当に熱帯地方になったのでは??
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「夢のサマーセッション」の締めくくるのは筆記試験と、グループごとに研究の成果を見せるグループ・プロジェクトの発表だった。
筆記試験のほうは、これまで学んだハワイの歴史や文化に関する様々なハワイ語の中からTrue or Falseを選択する問題や、ブランクを埋めたり説明をしたりするといったもの。あれだけ一生懸命、試験勉強をしたにも関わらず、とても難しく苦戦をした。一番いけなかったのは、「Spell my name correctly(私<先生>の名前を正確に書きなさい)」を正解できなかったこと。ごめんなさいアーネラ先生。私は50点満点で、39.5点しか取れなかった。
しかしグループ・プロジェクトの発表では、この結果を挽回。内容にふさわしい独自の研究発表が高評価につながることになった。
サマーセッションの初日、アーネラ先生からグループごとに研究内容を決め、授業以外の時間に各自リサーチをして成果を発表するよう説明があった。ハワイの音楽、フラ、レイ、スポーツ、農業、漁業、土地と水に関する権利、織物など、あらかじめ先生が候補を提案。興味深い項目が多々あったが、私は以前から強い関心を持っていたハワイの宗教について、もう少し追求してみたいと思い、これを調べてみることにした。
私のグループのメンバーは、日本人のチエさん、ハワイ大学の講師キャサリン、パホアから通っているケリー、そして私の4人。タイトルは、ハワイの宗教といえばこの存在以外考えられない"ペレ"だ。
4人でいろいろと話し合い、研究の成果は、なんとスキット(寸劇)で発表することに決定!実は高校時代、私は体育祭の山車でギリシャ神話の女神役をやったことがある。白いシーツを身にまとって女神になりきり、大勢の人の注目もなんのその、みんなと大いに盛り上がったのだった。
今回は毎日のようにみんなでキャンパス内に集まり、ハワイの人々の生活におけるペレの存在、その歴史的背景を踏まえて、自分たちでスクリプトと配役を考えた。私が演じたのは、キリスト教の宣教師と結婚したハワイに住む日系人。ペレを信仰する気持ちは消えないが、夫の影響でキリスト教との間で揺れ動くという役だ。チエさんは、その長い黒髪が似ていることから、火の女神ペレ。そして私の娘役となったキャサリンは現代科学を信じる新しい型の人間、もう1人の娘を演じたケリーは従来の風習やマナ(神の力)を信じる古い型の人間。新旧の信仰の間で揺れ動く母親を、二人の娘がセリフの中で体現するというわけだ。結構長いセリフを必死に暗記し、使う小道具を集めるためにヒロのダウンタウンをあちこち探しまわるなど、研究は手作り感があふれるものになっていった。
〔スキットが終わりキャストが勢ぞろい〕 〔火の女神ペレに捧げものをする日系人役の私〕
スキットの練習中には、高校時代の体育祭をたびたび思い出した。あの時は恥ずかしさなど微塵も感じず、とにかく楽しかったという記憶しかない。しかし、このサマーセッションでの発表はなぜか"猛烈に"恥ずかしかった。理由は分からないけれど、とにかくクラス全員の前に立つのが照れくさかったのだ。この場から逃げてしまいたいとさえ思うほどだったが、不思議なことに英語でセリフを話し始めると、その恥ずかしさが半減。最後まで日系人役を演じ切り、スキットは無事終了。まったく妙なものだ。
ほかのグループが作表したり、調査資料を図に表したりと、しごくまともな研究発表だったので、私たちの"宗教グループ"のスタイルは実にユニークだったと思う。これがアーネラ先生の目にどう映ったのかは分からないが、最終的な私の総合評価は『A』。はるばる日本からやって来た、その労をねぎらっての評価だったのかもしれない。
こうして私の『夢のサマーセッション』は終了した。わずか2か月余りの経験だったが、一生心に残る思い出となった。ここで取得した単位は、いつまでも大学の資料に残る。またいつかハワイ大学へ戻り単位を重ねていって、一生かかってでも卒業の資格を取りたい。そんな夢を実はひっそりと抱いている。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】いよいよ大好きな夏がやってきた。今年は長男の赴任先のジャカルタへ1週間ほど行ってくる。25年ぶりのジャカルタは、すっかり変貌しているらしい
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ハワイ大学での授業の中で、特に印象深かったのが、「ホクレア号」の船長、チャド・バイバイヤンがゲスト講師として招かれた時のことだ。
「ホクレア号」とは1975年、多くの芸術家や研究者の賛同を得て、アメリカ建国200周年記念事業の1つとして建造された、双胴船カヌーで、チャドはこのホクレア号について、その存在意義を様々な観点から語ってくれた。
〔「ハワイ・オハナ」クラスの講師、クム・アーネラと、「ホクレア号」の船長チャド・バイバイヤン。〕
〔「THE FLINTSTONE:「ホクレア号航
プロジェクト」から〕
彼の説明によると、ホクレアという名前は、ハワイ語のhoku(星)とle'a(喜び)、すなわち"喜びの星"という意味だそうだ。この船の建造目的は、"ハワイ先住民はいつごろどこからこの島にやって来たのか"という謎を解くこと。それまで主流だったのは『ポリネシア人は南米から漂流してきた』という説だった。
しかし、ポリネシアの伝統航海術を学んだナイノア・トンプソンが中心となって、これに異を唱えた。ポリネシア人は東南アジアからマルケサス諸島へやってきて、そこから北上し、紀元900年ごろハワイに定着した、というのが彼らの主張だ。生意気だが、私もこの主張に賛成だ。インドネシア、ハワイ、両方で生活した経験から、インドネシア語とハワイ語には、同じような言葉がいくつもあることが、以前から不思議に思っていた。たとえば"火"は、インドネシア語で"api"、ハワイ語で"ahi" そして、"死"はインドネシア語で"mati"、ハワイ語で"make"という。(この、東南アジアから太平洋の島々に広がる、同じような言葉を使うグループを『オーストロネシア語族』という)。
トンプソンたちはホクレア号を操って、太平洋に散らばる島々への航海を成功させた。2007年には、多くの日本人移民を輩出しハワイと関わりの深い沖縄を始め、瀬戸内海の周防大島、広島などを訪れ、最後は横浜港へ寄港した。この時のホクレア号船長が、今回のゲスト講師、チャド・バイバイヤン氏だったのだ。
ホクレア号の意味するところは大きい。この双胴船カヌーは、近代計器を備えておらず、かつて古代ポリネシア人が太平洋の島々へ拡散したと同じ航海術で海を渡った。エンジン、航海機器など持たない古代ポリネシア人のカヌーが、はるばる東南アジアからミクロネシアを経てポリネシアへ、さらにハワイへとやって来ることが可能であることを、このホクレア号は証明したのだ。
伝統航海術は通称「スターナビゲーション」と呼ばれ、航海の基本となるのは、「Wind(風)、 Wave(波)、 Wing(羽)」の3W。
風の声を聞き、波の変化に心を傾け、羽ばたく鳥の行方に目をやる。そして昼間は太陽の方角、夜には輝く星、月を頼りに双胴船カヌーを操って、あの広大な太平洋を渡ってきたのだ。彼らは一体何を目的として、この大移動を試みたのだろう?
〔かつてポリネシア人が乗っていたものは、このような双胴船であっただろうと推測されている〕
それまでの居住地で人口が増加し食料が乏しくなったため、新しい居住空間を求めていたとか、ほかの島々との戦いで、自分たちの島を離れざるを得なくなったなどと、いろいろ推測ができるが、私はやはり彼らが"冒険"を求めていた、と思いたい。目の前に広がる広大な海を見て、その向こうには一体何があるのか、そこに待ち受ける新天地を求める気持ちを抑え切れなかったに違いない。
ホクレア号はハワイでは大変重要な存在で、特にハワイ先住民の血を引き継ぐ人々にとっては、自己確立の象徴となっている。自分たちがどこからどのようにしてハワイの地へ到達したのか、その謎を解き明かすカギとなるのだ。そのホクレア号の船長から直接話を聞けたことは、私にとって大きな思い出となった。それと同時に、私のハワイへの憧れは、かつて東南アジアの民族が未知の世界を夢見てハワイへやって来た気持ちと相通ずる気がして、私の"ハワイ愛"はますます大きく膨らんでいったのだった。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】人生には様々な節目がある。その節目を正確に認識し、適切な判断をして行動に移すということは、とても難しいものだ。自分の予測と異なる方向に向かわざるを得ないこともある。しかし常に新しい展開への期待を持ち、夢を持ち続けたいものだ。
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ハワイ大学のサマーセッション"ハワイ・オハナ"で、授業の初日に学んだことは、先生であるクム・アーネラが出席を取るときの返事の仕方だ。自分の名前を呼ばれたら「eo (エオ)」と答える。これはハワイ語で「Yes, I'm here(はい、ここにいます)」という意味だ。ハワイの文化を学ぶクラスである以上、授業の中にハワイ語が出てくるのは当然のことだった。
しかし、独特のルールを持つハワイ語を理解し、操るのは至難の業。そんな中で遭遇した最初の難関が、ハワイ語で祈りを詠唱するチャントの暗記だった。ハワイでは、ものを学ぶときや神聖な場所に立ち入る場合、神々に対しその許しを請い、敬意を払わなくてはならない。たとえばフラダンスを学ぶときも、まず生徒たちはフラの神に祈りをささげ、厳粛な気持ちでフラを踊り始める。
〔毎年6月、マウナケア国立公園で開催される、マウナケア カルチュアル・フェスティバルで見た、フラカヒコ(古典フラ)。踊っているのは古典フラの最高峰とされるグループ〕
そして私たちも、授業を受けるにあたり、「ハワイ・オハナというクラスを受けるためにハワイ大学に入ってもいいですか」と神に許しを請うことを求められる。ハワイ語で書かれたチャントのプリントが渡されるのだが、そこにはまるで"おまじない"のようなアルファベットの羅列が示されていた。
A uka ho'I Waiakea I ka Uluau
Aheahe anaka hone a ka wai ua
Ua hiki mai ho'I me ka mana'o e
He wai lani ko kulanihako'I e
He aha no'I ko neia honua la e
He ui 'ano'ai e welana aku nei e
このチャントの表現はとても比喩的で、まずワイアケアの山肌に霧のように静かに降りそそぐ雨の美しさをたたえることから始まる。意味を要約すると、『美しく豊かな自然に囲まれながら、大学で学ぶ機会をどうぞお許しください』と神に許可を願うチャントだ。
ハワイ語の母音は日本語と同じ、「AEIOU」の5音、子音は「HKLNMW」で、母音の5文字を合わせて合計35字で構成されている。母音の発音は、ほぼ日本語の「あえいおう」と同じだが、そのほかに「'」が付くと、その前の音を詰まらせる(オキナ)。また、ここには表記できていないが、母音の上に横棒があるものは、その母音をおよそ2倍の長さに延ばして発音する(カハコ)。
それを踏まえたうえで、上記のチャントを1週間で暗記することが、最初に与えられた最大の難関だった。私は毎朝起きると、まずこの暗記に取り掛かった。チャントは神々に聞こえるように、お腹からしっかりと息を吐き出して明確な発音をしなくてはならない。アパートの隣近所の住人は、毎朝私のチャントの練習をなんと思って聞いていたのだろうか。
〔毎朝サーフィンをしてから授業に出席していたクラスメート。彼女のチャントは心に響く本当に素晴らしいものだった。〕
プリントを渡されて1週間後、このチャントのテストが行われた。ハワイ語なのだから、もちろんハワイアンの生徒は絶対的に有利。あの毎朝サーフィンをしてくるハワイアンの女性は、それは見事な、美しいチャントを唱えていた。しかし私も負けるわけにはいかない。1週間毎朝、近所迷惑も顧みず、大きな声で練習を続けてきたのだ。わざわざ日本からこのコースを受講するために来たわけだから、クラスメートたちとはそもそも心構えが違う。そして迎えた本番では、日々努力してきた成果をすべて出し尽くした。その結果、チャントは見事にAを獲得! こうして私は無事"ハワイ・オハナ"を受けられることになった。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今、我が家のベランダには、柚子、オリーブ、ブドウ、イチジク、イチゴ
しし唐、トマト、オクラと、食いしん坊の私にぴったりのものがいっぱい。ブドウは棚を作ったので、今年の夏はブドウの木陰で本でも読もう。
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ハワイ大学のサマーセッションを受講したのは、もう10年以上前のことになる。大好きなハワイでもう一度生活したい、もっとハワイのことを深く知りたい。そんな思いが募り、インターネットでハワイ大学の受講条件を調べた。国籍や年齢には関係なく、授業料さえ払えば誰にでも開かれていることが分かり、さらに内容を詳しく調べた結果、"Hawai'I 'Ohana"というクラスを受講することにした。
このクラスでは、ハワイの歴史や文化について学ぶ。ちなみに、'Ohanaというのはハワイ語で「Family, relative, kin group」という意味。単なる"家族"というより、"アロハの絆で結ばれている親しい仲間、一族"という感じだ。ハワイの人々にとって、'Ohanaの絆は大変強く、社会を形成する基盤となっている。'Ohanaを基に歴史が築かれたといっても過言ではない。つまり、ハワイの歴史を学ぶなら、まずこの'Ohanaを理解しなくてはならないのだ。受講期間は2か月。よしっ!と決心して、ホームページの申し込みボタンをクリックした。
次に、生活の拠点となるアパートをインターネットで探していると、見覚えのある部屋の写真が。なんと、以前、ハワイに住んだときに暮らしていたアパートが、オーナーが変わり、ハワイ大学の学生用宿泊施設となっていたのだ。何だか運命的なものを感じて、これもPCの前で即決定。
もう1つ、ヒロで暮らす上で必要なのが車だ。2か月のレンタカー料は、アパートの家賃の数倍になったが、バスが走っていないこの町では車がないと身動きが取れない。本当は中古車を買い取り、帰国時に売るのがベストの方法だったのだろうが、一人での車の売買は心細かったし、保険に関してもよく分からない。ならば、少々の出費はしょうがないと決心し、レンタカー会社Dollars Rent a Carの申込みボタンをクリックした。
なんでも気持ちさえ決まれば、あとはPC任せ。今の世の中は簡単に事が運ぶ。
こうして始まった2か月半のハワイひとり生活は、夢のような月日だった。クラスメートは年齢も職業もさまざま。大半がハワイ大学の学生だったが、それ以外に何人かユニークな人がいた。
その1人は、私とほぼ同年代と思われる日本人女性。私も50歳を越える年齢で一人でハワイ大学を受講しようというのだから、他人のことをユニークだなどと言えた義理ではないのだが。また、毎朝サーフィンをしてからクラスに来るハワイアンの女性は、波がいい日はサーフィンに費やす時間が長引き、時々遅刻をしてきた。海からあがってすぐ来るせいか、長い髪はいつも濡れていた。
それから、夫が家族を捨てて家を出て行き、州からは経済的に扶養能力がないとみなされたシングルマザーもクラスメートだった。「何とか生活力をつけないと子供は施設行きになる」、と悩みは深刻で、授業が始まる前の教室で、時々一人泣いていた。そんな彼女に対して私にできることは、話を聞いてやることだけだった。
そんな彼女とは逆に、強くたくましいシングルマザーもいた。彼女は、ハワイ大学でコミュニケーションのクラスを教えている白人女性講師。子供がいるというので、席が隣になったときに、つい『ご主人のお仕事は?』と尋ねると『I don't need a husband(私には夫なんて必要ないのよ!)』と一蹴。"安易にプライバシーには触れないこと"・・・このクラスで学んだ最初のレッスンだった。
こんな仲間と共に始まった"Hawai'I 'Ohana"のクラス。先生はもちろんハワイアンの女性講師で、クム・アーネラと呼ばれていた。「クム」はハワイ語で先生という意味。だから、クム・アーネラは「アーネラ先生」となる。これから始まるこの楽しい仲間と陽気なアーネラ先生との2か月間、どんなことが待ち受けているのか、不安10%、期待90%で、私は大きく胸を膨らませていた。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】夏が近づいてくると、日本でもあちらこちらでハワイに関するイベントが行われるが、何と言っても地元ハワイの「メリー・モナーク・フェスティバル」に勝るものはな
い。今年も4月、世界中からフラダンサーがハワイ島のヒロに終結し、至高の戦いを繰り広げた。来年は必ず見に行く!!
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5年前にヒロを訪れた時のことだ。大好きなダウンタウンを散策しながら、マモ・ストリートとケアヴェ・ストリートの角にある'Ohana Café(オハナ・カフェ)に入り、サンドイッチを食べた。この店はヒロの観光案内で時々紹介されるのだが、ローカル色いっぱいの、どこか懐かしい雰囲気のあるコーヒーショップだ。
カウンターでコーヒーを飲みながらWatermark出版の『Exploring Historic Hilo』を開く。ここはかつて 「Elsie's Fountain(エルシーのファウンテン)」 という名の店だった。その歴史は古く、オープンしたのは1940年代。『Exploring Historic Hilo』では次のように説明されている。(以下モノクロ写真はすべて、『Exploring Historic Hilo』から)
〔現在のOhana Cafe。 右は店内の様子〕
「エルシーのファウンテン:
エルシーのファウンテンは、1940年、ジェームズ・シノハラ氏がオープン。彼はいつも蝶ネクタイを締め、長袖のドレス・シャツを着、黒いズボンをはいていた。隣には日本式の銭湯と床屋があり、店の内部は、当時としてはおしゃれな高い腰掛にカウンターがあった。1997年に閉店した後、オーナーが変わり、今は'Ohana Café'として営業している。」 ( 『Historic Hilo』 より)
これを読んでいると、かつての町の様子や日系人の生活が目の前に広がり、「オハナ・カフェ」にいながらにして、「エルシーのファウンテン」の時代にタイムスリップしたような気持ちに陥ってしまった。
〔1940年ごろのエルシーのファウンテン。店の前では、アロハウィークのパレードを見物している、当時の日系人の姿が見える。〕
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】次男が今月か来月にチンタオへ、長男が5月にインドネシアへ転勤になる。同時期に息子二人が日本を離れるが、本人が希望していたことでもあるし、親も似たような生活をしていたのだから、喜んであげたい。これからは世界に視野を広げて、思う存分仕事に励んでほしいと思っている。
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ハワイにはかつて、2つの航空会社があった。その1つ、アロハエアラインのロゴはゴクラクチョウの花。もう1つのハワイアンエアラインのロゴは頭にハイビスカスを付けた女の子。特に理由はないのだが、あえて言えば"Aloha" という言葉が好きで、ヒロへ向かうときは必ずアロハエアラインを選んで乗っていた。
10年近く前のことだ。何気なくインターネットでアロハエアラインのHPを開いてビックリ。「米連邦破産法11条の適応申請」とある。「今後は米国の法律による保護の下、通常通りの事業を継続しながら事業再建を進めてまいります。今回の申請は事業の停止や撤退を意味するものではありません。・・・」
〔アロハ・エアラインのトレードマーク、バード・オブ・パラダイス 極楽鳥花の模様。
これがもう見られない〕
知らなかった。今後はアロハには乗れなくなるかもしれない、そんな不安が心をよぎった。その後ヒロの友人がメールで、アロハエアラインが2008年4月1日以降、旅客事業から完全撤退することになったと知らせてきた。「隣に住んでいるアロハエアラインの従業員の、いつも出勤時に聞こえる車の音がなくなって気の毒だ」、とメールに書かれていた。
ハワイの象徴の1つとも言うべきアロハエアラインが61年の歴史を閉じたことは、大きなショックだった。破産の主な理由は格安航空との競争の激化。2006年にフェニックスに本拠を置くメサ・エアー・グループが、ハワイで格安航空会社"Go!Airlines"の運航を始め、その過当競争についていけなかったということだ。
その後2009年、このメサ・エアー・グループが"Go!Airlines"の名前を"AlohaAirlines"に変更したいと申し入れたが、アロハエアラインの従業員から、「倒産した理由は、"Go!Airlines"の過激な値引き合戦のせいだ」と強い反発があり、果たすことができなかった。裁判所はこの「Aloha」というブランド名を、アロハエアラインの最大株主の投資会社Yucaipa Cos.が150万ドルで所有する権利を許可したが、それはメサ・エアー・グループには絶対に譲らないという条件付きだった。アロハエアラインの従業員の気持ちが認められた瞬間だった。
ところが話はこれで終わらない。このメサ・エアー・グループが、2010年、やはり破産法第11章を申請し倒産したのだ。130機の航空機が負担になったという。中にはアロハエアラインの航空機も含まれているだろう。何という皮肉な巡り合わせだ。
YouTubeにある「Aloha Airline Last Day」というタイトルの映像では陽気なジャワイアン(ハワイアンミュージックとレゲエが融合したもの)の音楽にのって、アロハエアラインのキャプテン、乗務員、エンジニア、その他大勢の従業員が、親指と小指を立てた"Shaka" (ピジンイングリッシュで、どうしてる?元気? 気楽にいこう、などの意味)のサインを示しながら笑顔で別れを伝えている。そして最後は『Thank you・・・ for 61 years of service』 という言葉で締めくくられる。
流れるジャワイアンミュージックの中で、繰り返し歌われる歌詞が "spread a little aloha around the world (小さなアロハを世界中に振り撒こう)"
ハワイの人はどんなに辛いことでも、こうして笑顔で昇華してしまう。 そこが私がハワイに惹かれる最大の理由なのかもしれない。
私のハワイでの多くの思い出は、このアロハエアラインとともにあった、と言っても過言ではない。どんなにヒロが好きでも、人口3万人の小さな町に住んでいると、時には"大都会"に浸りたくなることがある。私をホノルルに運んでくれるのはあの飛行機なんだ、と大空を飛ぶアロハエアラインを見上げながら思っていたことを今でもときどき思い出し、切ない気持ちに駆られている。